ツキアカリテラス

tsuki-akr terrace

教案に一般解などない

昔は教案を固めていって、板書も構成も究極の完成形を目指すことに腐心していた。

 

教える仕事を始めた頃、諸先輩方の美しい板書に魅了され、自分もそれを真似てみたいと思った。緻密に準備されたものを構築して、芸術的な造形物であるかのような授業構成を作ってみたいと思った。かつて自分が経験したような予備校での演者さながらの講師のパフォーマンスを、自分自身でもやってみたいと思った。

 

しかし、今はそんなことにはあまり関心はない。教案もiPadのノートアプリ(Goodnotes)にちょこちょこと殴り書きする程度だ。これは経験を積んで、ある程度板書や構成を自分の頭の中で描けるようになったから面倒くさくなったのかもしれないが、それだけが理由ではない。一番の理由は、いつからか教案における一般解なんてないのでは?と思うようになったからだ。

 

昨日の記事にも書いたことだが、私は教育サービス業に従事している。だとしたら、目の前の生徒がもっとも望むものを提供するのが筋ではないかと考える。しかしながら、すべての生徒がクローン人間のようにいろんな面で均一化されているわけではない。クラスに関係なく同じ授業をしたときに、たとえそれが一級品であっても、目の前の生徒を満足させられるかというと、そうとも限らない。超高級食パンを差し上げても「私ご飯派なんですー」と言われたらその価値は半減するだろうし、同じ人であっても「あ、今日はパン食べたい気分かも」となるときだってある。その日のコンディションによっても求めるものが変わることだってあるのだ。

 

ではそのようなものを提供するにはどうしたら良いのか。そのためには生徒の困っているところがどこかというのをしっかりと把握しなければならない。そのために生徒との問答があり、机間巡視がある。授業の残り時間や展開次第ではこちらのペースに無理やり持っていくこともたまにはあるが、教案を作っておいて、問答や机間巡視の結果、本番でそれをぶっ壊して、違う展開にもっていくことなんて日常茶飯事である。

 

目の前の生徒に合わせて自由自在に良いものを提供できるようになりたい。その点では昔に比べれば精度は高くなってきたが、まだまだだ。自分の感覚の解像度を上げるために、今日も明日も生徒と掛け合う。