ツキアカリテラス

tsuki-akr terrace

手帳で自由を手に入れ、所有欲を満たす

今週のお題「手帳」

 

その昔、時間管理だとか予定管理ってのは、人との約束事さえ把握できていればいいと思っていた。けれども、さすがに大学で研究室に入るとそうはいかなくなってきたので、後輩が持っていたのに惹かれて買ったのがほぼ日手帳である。思えばこれが自分の手帳遍歴の始まりだと思う。それまではどうやって時間管理をしていたか思い出せないのだ。ポケット手帳を使っていた気もするし、ガラケーで入力していた気もする。

 

それから社会人になってしばらくの間、ほぼ日手帳を使っていたが、色々あってほぼ日手帳以外の手帳を使おうと思い立ち、6〜7年ほど色々使ってみた。書店に並ぶメジャーどころのものは大概触ったと思う。ほぼ日手帳に出戻りすることもあった。スマホやらタブレットやらを活用して、デジタル化へのチャレンジもした。ただ、どれもしっくりこず、手帳ジプシーになっていた。

 

最近、バレットジャーナルというものの存在を知り、これはシンプルでなおかつ自由度の高い手帳だと感じ、昨年からロルバーンのダイアリーを使って実践。途切れ途切れながらも、なんとか1年継続できた(恥ずかしながらこれは自分にとっては大偉業である)。そして今年もロルバーンでバレットジャーナルを書いている。

 

振り返ると、私が手帳において譲れないものは何かが見えてきた気がする。ようやくこの歳になって。細かいところまでピックアップすればいくつかあるのだけど、特に重要視しているのが「所有欲」と「自由度」である。割と機能性についてはどうでもいいんだな、と無意識ながらに思っていたのは驚きである。

 

そもそも、これだけ飽き性な自分がなぜ何年もほぼ日手帳を使い続けてきたのか。それはほぼ日手帳が、アイコンとして完成度の高いものだったからだと思う。中身もさることながら、アート性の高いカバーが持っていて幸福感をもたらしてくれる。だから他の手帳はそんなに長く続かなかったんだろうなあと。

私は楽器を嗜むのだが、楽器を買うポイントで一番大事なものは「見た目」だと思っている。値段や質は二の次である。楽器にはなるべく触れないと上達しないのだが、見た目で惚れなきゃそもそもその楽器を使おうと思わないからだ。所有欲の高さがその楽器への愛着につながると思っている。それに通じるものがあるのかもしれない。

私がいま、バレットジャーナルを運用するツールとして用いているロルバーンもそういった所有欲を満たしてくれるノートだと思う。あのカラーリングがとてもいい。もちろん使いやすいというのもあるのだけど、私がロルバーンを推す理由はカバーや紙の色、つまりは見た目が一番大きい。

 

そしてもう一つの自由度。今ハマっているバレットジャーナルはそのカスタマイズ性の高さがウリでもある。様々なコンテンツを適宜挿入することができる優れたシステムだ。以前使っていたほぼ日手帳はバレットジャーナルにはかなわないけれど、1日1ページで高い自由度でもって好きなことを書けるのがウリである。

よくよく考えれば、私は動物占いでライオンなのだ。あと裏の動物?みたいなのもあるらしく、それはペガサスらしい。束縛を嫌い、自由を愛する王様キャラ。まあ悪く言えばワガママなのだが(笑)そういや思い返せば、人に指図されるのはすごく嫌だし、自分のやりたいスタイルでやることには強いこだわりを思っていたなあと思う。

たださすがに昨年やっていたバレットジャーナルは、自分用のアレンジが強すぎて、それゆえに途切れ途切れになっちゃっていたのかもしれない。自由を愛するとはいえども、物事は守破離の順で自分のものにしていかないといけない。今年はもう少し本家に近い形で続けていけたらなあと思う。

 

よく雑誌である手帳の特集が好きだ。みんな色々な工夫をされているなあと感心するのだけど、あれはまさにユーザーの価値観を写す鏡なのかもしれない。この人どんな人だろう?というのが垣間見えるから、手帳って面白いと思う。

2022年度共通テスト化学基礎を解いてみた

第1問

問1 案外難しい。①は化学式に惑わされないように注意。③は判断に迷うが、明らかに①が誤りなので正しいとする。

問2 これは基本事項ばかりなのでできてほしいところ。選択肢の作り方について、このような問題なら周期律だけで作りそうなところが、いろんな事項が盛り込まれている。これもセンター試験とは違ったトレンドになるのかも。

問3 見た目ほど難しくはない。これも問2同様の選択肢のつくり。過去にはあまり例がない気がする。

問4 問題文が長いが、飛ばし読みで解答可能。化学基礎としてはやや細かい知識かも。

問5 中和反応の基本。これは落とせない。

問6 モル濃度ではなく質量パーセントが与えられており、そこから物質量の大小を判断しなければならないので手間がかかる。中和時は電離度を考慮しないことに注意。

問7 基本的な中和反応の計算。これは落とせない。

問8 問題文は短めだが、それぞれの物質がどのような反応をするかを考えなければならず、難しい。試行調査でも中和反応に該当するもの、という出題があったので、この手の問題は今後要注意と思われる。

問9 酸化鉄中の鉄がすべて単体に変化することがわかれば反応式は不要。センター試験からよく出題されているタイプの計算問題。

問10電池に関する問題。落ち着いて考えれば正解できるはず。

 

第2問

問1 単純な知識問題。

問2 グラフの読み取りが必要で時間がかかる。しかも見慣れないグラフであるため、その場で「こういうグラフになっているのはどういうことだろう」と考えなければならない。理系で出題しても十分試験になると思われる。

問3 aはよくある問題。問題はb以降。状況把握力が問われる。蒸留液の濃度をもとに蒸留液および残留液におけるエタノールと水の質量を求める。cは蒸留液1の質量パーセントがわかればそれをもとにbと同様に考えればよい。化学というよりは数的思考が求められる。

 

2021年度から大きく難化したとはいいがたいが、それでも理系でも苦戦する問題も散見されるため、高得点をとるのはかなり難しいと思われる。

 

 

2022年度共通テスト化学を解いてみた

第1問

問1 これは単純な知識問題。

問2 まともに計算すると大変。分子を揃えるというのは計算によほど長けていないと気づけないかも。

問3 定性的に考えて二択に絞れる。あとは変化の仕方を考えればよい。状態方程式からゴリ押しで密度を導いてもよい。

問4 細かい知識が問われているが、④が明らかに謝り。

問5 aは標準的。bは最初気相の組成比が変わると思って計算地獄に陥ってしまった(笑)改めて問題文を読むと「組成は変わらない」と。であれば立式は難しくない。とは言え何が問われているかもちゃんと把握しないと遠回りしかねないので難しい。

 

第2問

問1 これも単純な知識問題。

問2 結局はただの酢酸(+塩化ナトリウム)水溶液。体積が変わることだけ注意。

問3 これも無駄にひねっている。(特に今年度のような時間がかかる問いが多いセットなら)素直に平衡定数を示せばいいのに、と。ただ、手順を増やすというのは問題を難しくする常套手段の一つなので、こういう傾向は続くかも。求められているのは何か、そしてそれを導くための方針は何かをスピーディに引き出すことが必要。

問4 aはこの手の問題でよくある水素原子と水素ガスの変換がないので比例計算して終わり。bは未反応の物質が含まれていることに混乱しなければ簡単。cは反応式を自分で導く必要がある。おそらくはbが誘導の形になっているのでは。

 

第3問

問1 構成するイオンがたくさんあり、それぞれの操作でどのような変化が起こるかを考えなければならないので、時間がかかる。でもこれはすごくいい問題。

問2 過不足なく反応するのは最大量得られるとき。類題をやったことがないと難しかったかもしれない。

問3 aは簡単。bは類題の経験がないと難しい。cは最小限、とあるので過不足なく反応させるために必要な量を考えればよい。

 

第4問

問1 ②が案外難しいかもしれない。このように、見慣れない問いを既存の知識を運用して解く問題は今後増えるかも。

問2 配向性を知らなくても生成物からメタ位には置換されないことがわかる。これもすごく良い問題。

問3 細かい知識がところどころあるものの、⑤が明らかに誤りと分かるのでそれほど難しくはないか。

問4 aはどのような反応を経てできるかがわかれば容易。bは官能基の有無で絞り込んで元素分析(逆でもいい)。落ち着いて解けばいけるはず。

問5 分子の形が対称であればヒドロキシ酸は1種類しか得られないことに気づけば早い。

 

第5問

問1 単純な知識問題。④はポリ「アセチレン」であることに注意。

問2 類題をやったことがあれば楽(というより頻出なので類題はほぼ全員経験しているはずだが)。bはある程度熱化学方程式の扱いに慣れていても難しい。見慣れない設定で同じことができるかを問うている。cは1.0秒から6.0秒という引っかかりやすい設定であることに注意(多分グラフが通る座標のため、こうなったんだろうなあと)。dは典型的だが、これも複数の手順が必要。まずは速度式を求める必要がある。

 

ひねりにひねった問題が多く、標準的な問題でも時間が取られる形になっており、解けなかった、というよりは時間が足りなかった受験生が多かったのではないか(これは化学だけでなく他の科目でもそう)。しかし、よく練られており、解答の方針を論理的に立てる訓練としては良いので、二次・私大を控える受験生でも解き直しをする意義は大きいと思う。

遅ればせながら新年の挨拶がわりに

だいぶ間が空いてしまった。前回の投稿が31日前なのでかれこれ1ヶ月だ。

 

もはや私の分身、いや体の一部である「三日坊主」がついに姿を現したのか、というと、そうでもない。単に忙しかったのだ。なにせこの業界は冬場がとにかく繁忙期である。ただ授業をして丸一日が終わる、ということも珍しくなく、まさに年末年始はそんな過ごし方だった。

 

でもそんな中で、私自身、仕事以外のことにどれだけ労力を割くのかということはずっと考えていた、というか悩んでいた。

 

思えば、コロナがやってきてから、不確定な未来の中で、どんな業務が空から降ってくるかなんてのも想像しがたく、どうとでも来やがれ、みたいなスタンスでただただ降りてきた仕事を捌くようなスタイルになった。当然どこかで無理がくる。

 

そんな中で、自分を大事にすることを忘れたのかもしれない。自分がどれだけしんどくても、犠牲になってでも、他の人を守る、他の人に幸せを与える。もちろんそのスタンスはコロナ前から変わらないのだが、去年はより一層それに拍車をかけてしまっていたなあ、と思う。どこかで満ち足りない自分がいたことには薄々気づいていたし、滅私奉公モードになって、じゃあ色々うまく回ったのかというと、案外そうでもなかった。

 

そして、ここ数日、仕事も落ち着きを取り戻しつつあり、また新年を迎えたということで、改めて自分のライフスタイルを見直してみた。さすがに自分をないがしろにしすぎだろと思った。

 

もっと楽しいことをやろう、仕事から離れたところに身を置いてみよう、もっと変化を自分に与えて刺激を与えよう。このブログも自分に彩りを与える一つだ。自分の内面にあるものを表現する場として大事な存在だ。ぼちぼちと続けていこう。

 

ということで、本年もよろしくお願いします。

平常授業の最終回

冬期講習が目前ということで、今年の平常授業が続々と終わっている。特に高3は、これから講習しかないので、事実上の最終講義ということになる。

 

よく最終講義というと、最後に授業内容とは関係なく、熱いエールやスピーチをしたり、ちょっとしたパフォーマンスをしたりするケースが多い。私も教え始めたときはそういうことを少しやっていた。

 

だが、今はやっていない。普段と終わり方はなんら変わらない。

 

色々と理由はあるのだが、一番大きな理由は、ここで終わりという印象を持たせたくないからだ。

 

受験というのはもちろん自己鍛錬の結果が反映されるものだが、それと同等に精神の勝負であるとも思う。秋ぐらいまで鳴かず飛ばずだったのが、何かに取り憑かれたように追い込みをかけて見事合格したケースもあるし、センター試験直前まで順風満帆だったのに、ふとあまり姿を見なくなり、フタを開けてみたらセンター試験は目標に遠く届かず、その後の追い込みも結局不完全燃焼になり、第一志望校に合格できなかったケースもある。合否が決まるその日までいかに緊張の糸を張り続けるか、しかし張り詰めすぎて切らさないようにするかが大切なのだ。

 

それなのに、ここで一区切りみたいな形である意味でエンディングみたいなものを設けるのは、その点で逆効果だと思う。いや、もちろん、発奮するケースもなくはないと思う。だが、恥ずかしながら私にそこまでのカリスマ性も話術もないので、逆効果に終わるリスクが高いと思うのだ。たとえあったとしても、そういう見せかけだけで成長したつもりにはさせたくはないのだが。

 

受験とは非日常なイベントである。非日常になると普段通りのパフォーマンスがなかなか発揮できないケースが多い。よく塾内のテストでは好成績をおさめていたのに、試験本番になると鉛筆を持つ手が震える、という話を聞く。人によっては「試験会場には魔物が住んでいる」などと形容するのだが、これはあながち間違ってはいないと思う。

 

だから、受験というのは日常の1ページにすぎないことを感じさせたいとも思っている。最後の授業でもいつも通りここができてないぞとダメ出しをしたりつまらないギャグをいったりボケる生徒にツッコミを入れたりしたいのだ。

 

そもそも、勉強など受験の有無に関係なく終わりなどない。人はずっと学び続けなけて知のアップデートを繰り返さなければならない。最終講義などただの通過点でしかないのだ。

大学入試間際だからこそ確認してほしいこと

共通テストまで50日を切った。また今年も入試が始まろうとしている。おそらく多くの受験生は最後の追い込みということで、過去問の演習に邁進していることだろうと思う。

 

ただ、この時期だからこそ、もう一度確認してほしい。

 

「本当に基礎は完成していますか?」

 

多くの問題演習をこなすと、それだけ経験は豊富になる。しかし、経験が豊富になったからといって、合格に必要な力がついているのかというとそうとも限らない。

 

入試では当然、「今まで見たこともない問題」が出題される。もしかしたら一見「やったことのある問題」なのかもしれないけれど、どこかの設定が違っていたりして、完全に一致する問題は皆無である。そして、そのような問題を解くためには、パターンラーニングでは到底無理である。つまり、演習した問題数といった物量作戦では、とりわけ大学入試をパスすることは非常に厳しい。

 

では何をもって合格に必要な力が身についたとみなすべきなのか。何をもって「基礎が完成された」とみなすべきなのか。一つの尺度としては「解法を、目の前の問題に合わせて微調整して適用すること」だと思う。言い換えれば、あらゆる問題が、やったことのある問題を解くのと同じ感覚で解けるようになることが到達点だと思う。

 

一度、問題を解いているとき、自分がどういう思考回路なのかを意識してほしい。そのときに、過去にやった問題を検索してはいないだろうか。もちろんそういうことは多かれ少なかれ必要なのだけど、それが問題を解くときのメインの作業ではない。拠り所は自分の問題を解いた記憶ではなく目の前の問題なのである。問題文にこう書いているから、ああ、この問題は前にやったこの問題と同じようにして解けるな、だとか、いや、問題文を読むと、前にやった問題とここが違うぞ、、ではここをこうしたらうまく適用できるのではないか、という思考回路を取れるかどうかだと思う。

 

解法は出来合いの料理のようにそのまま出していいものではなく、食材のようなものである。それをうまく調理するというステップをちゃんと踏んでいますか、ということを自問してほしいのである。

 

問題を数多く解いていると、できたつもりになったり、基本に立ち返ることを忘れたりすることは多い。それでは結局力が身についていないのと同じである。この時期だからこそ、もう一度当たり前の大切なことを考えてほしい。

年下でも後輩でも敬語を使う

前にも書いた通り、私も勤続10年、すっかり歳をとったものである。私が仕事を始めたときの、10年先輩の人のような存在感を纏っているかというと、それはないだろう、、と思うのだけど。

 

ということで、私よりも年次が下の人が随分増えてきたし、もちろんアルバイトもどんどんと社会人になって入れ替わり立ち替わり、である。

 

たまに聞くのが、いわゆる正社員の人たちは、アルバイトさんやパートさん(パートさんは年上であることが多いのであまりそういうことはないと思うが)に対して不躾な態度をとることが時々あるということだ。幸い、私の近くでそういう話は皆無なのだが。

 

不躾な態度というのは暴言を吐いたりすることではない(それはもはやパワハラだ、、笑)。ちょっとした会話で下に見たり、小間使い的な人とみなしたりするような対応をとるのだ。昔でいえばお茶汲みみたいなものだろうか。

 

私自身はアルバイトであろうが正社員であろうが、「スタッフ」という一括りではいずれもフラットな立場にいるものだと考えている。ましてやアルバイトの方が歴が長ければ向こうの方がベテランだとさえ思っている。そういう態度を取るなんてもってのほかだ。

 

そしてそれは、言葉遣いにおいても表れるから、注意しなければならないことだと思う。私は社員のキャリアだとかアルバイトだとか関係なく基本的に「スタッフ」とは敬語で接する。かつて私の昔の教え子であったとしても、だ。

 

いくつか理由があるのだけど、まず1つは「敬語で話さないことが暗黙のうちに上下関係を生む」ものだと私が思っているところだ。考えすぎなのかもしれないが、これはあながち間違いではないと思っている。片方が敬語で話し、もう片方がぶっきらぼうに話す。端から見れば確実に上下関係が成立していることは明白だろう。

 

それと同様に、誰かを呼び捨てにしたり、「君」付けで呼んだり、あるいは肩書きを付けて呼んだりするのも私はしない。これをやたら多用する人は正直、マウンティングが好きなのかなあと思ってしまうのだ。そういう意味では、私も「〜先生」ではなく「〜さん」と呼ばれたいものなのだが笑

 

そしてもう1つの理由として「敬語」は「適度な距離感」を生むものだと私が考えているからだ。仕事においては私情をなるべく挟まない方がいいと考える。やけに距離が近すぎても、それは馴れ馴れしい昭和のおじさんみたいになってしまう。これは特に昔教え子だった子がアルバイトとして入ったときによくあることだと思う。だから、仕事人としての付き合いとして最低限の「壁」を作るために敬語を基本的に用いる。

 

こんな人間だから、よくプライベートでも敬語を使って話はするのだけど(よほど打ち解けるともちろんそうではない)、向こうが端から敬語を使わないこともあり、敬語を使わなくていいと言われることが時々ある。こちらにも色々と意図はあって敬語を使っているのに、そう言われるとその使い方を他人に制限されているような気がしてあまりいい気分にはなれないのである(笑)少なくとも私にとって敬語を使う/使わないが仲の良さの尺度だということは決してない。敬語で話さなくてもあまり付き合いたくないなという人はいるし、敬語で話していてもこの人はずっと付き合いたいなという人もいる。あくまで人として最低限とるべき距離を保つために、敬語を使っているだけのことだ。

 

そういえばこのご時世でソーシャルディスタンスという言葉が流行った。だが、本当のソーシャルディスタンスというのは、その1つに敬語を使うかどうか、というのが含まれていると思う。