ツキアカリテラス

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自分の教育思想を捨てる

例えば、目の前の問題を解説するときに、どういう解説の仕方をするだろうか。

 

私は1つの問題であっても、様々な解法を提示することが多い。結局、本質的にはやっていることが同じであっても、最初の切り口やアプローチが違うと見た目で全く違う解き方になる。先日は、モルの計算で3つの解き方を示した(たぶんやろうと思えばもう少し増やせるかもしれない)。

 

多角的なアプローチを知ること、それを各自が使いこなせるようになることは、視野を広げることができ、画一的な解き方に縛られなくなるという点で、学力向上において最も大切なことの一つだと思う。また、簡単に問題を解いてしまうような上位の生徒であっても、知らない視点を知ることができるのは知的好奇心の刺激につながるので、満足度を下げずに済む。

 

しかし、このやり方が一般的に良い方法と限らないのではと、特に最近強く思う。もちろん、本音としては上記のような授業をしたい。しかし、当の生徒は全員そのような授業を望んでいるのだろうか。望んでもいないものを提供されるのは苦行そのものである。それなのに、自分のしたいことに拘るのはいかがなものかと思うのだ。

 

特に苦手意識が強い生徒は、目の前の問題に取り組んでも解けないどころか、思考停止して手を動かそうともしない/手を動かすフリをすることもしばしばある。このような生徒にとってはまずは「解ける」という感覚を持たせることが一番大切だと思う。なんとか自力で一歩前に踏み出すという経験をさせてあげたい。

 

その場合は、自分の教えることに対する思想を押し付けるのではなく、単純に問題を解ければいい、というスタンスを取る方が良いのではと思う。つまり、その問題に対する定石=典型的な解法を解説して「これはしっかりできるように」というように教えるのが良いと思う。おそらく公教育だとそう簡単にこちら側に舵を切るのは難しいのかもしれないが、私のように教育サービス業に従事している人間となれば、目の前の生徒に最適化された教育を提示することが本来すべき仕事であると思う。

 

自分の軸を持つのは大切なことだが、それにこだわりすぎて目の前の生徒を見失わないようにしたい。