ツキアカリテラス

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授業は間違えるところ

授業の中で、生徒を当てることがある。しかし、当てられた生徒は何とかして正しい答えを出そうと必死になるのか、そのまま押し黙ることもしばしばある。

 

私が生徒を当てる目的は大きく2つあって、一つは理解度をみるため、もう一つは思考を促すためである。まあ生徒を指名するのであれば典型的な目的であろうと思う。ところが、それで生徒が答えられないときに、それを残念に思うということはまずなく、前者の場合、理解ができていない=答えられないことが分かったとしたら、もう一度その内容を復習するように授業の構成を組み替えようかなあと思うくらいで、後者の場合であればそもそも正解を出してもらいたいという意図はない。

 

しかし、生徒にとってはそうではないのである。おそらく、これまでに当てられて間違えたときに、恥ずかしい思いをしたなどの経験がそうさせるのではないかと思う。

 

生徒を当てることに関しては、大昔に印象深かった経験がある。その生徒は理解度に関してもこれから伸ばしていかなければならない生徒であったので、基本的な問いを当てた。しかし、結局答えられることはできず、だからといって、先述の通り、自分自身は構わないと思っていた。

 

ところが、その後の生徒の反応に衝撃を受けた。こちらを見て震えているのである。もちろん私がこれまで答えを間違えて咎めたことなど一度もない。だから、当てられても間違えてもよい空間であることは雰囲気で感じられるはずだった。それにも関わらず、その生徒はまるで怯えた子犬のようにこちらを見て震えていたのである。素知らぬ顔でそのまま授業を続けたが、あのときのことは忘れない。

 

それ以来は、生徒が答えやすい環境、間違えやすい環境を作ることを強く意識している。「授業では間違えてもいいんだよ」「正しい表現でなくてもいいから、自分なりの表現で答えてみて」ということを公言している。

 

授業は間違えるところだと思っている。でなければ授業に出る意味はなく、ひたすら自学自習を進めればよい。その環境づくりを教師と生徒でともに行うことが大切だと思う。