ツキアカリテラス

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教えることより大切なこと

よく教える人たちの間で言われるのが「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」ということである。つまり、教科書に書かれた内容をそのまま教えるのではなく、教科書の内容をしっかりと研究した上で、時には教科書以外の教材を用い、教科書の内容を飛び越えて高次の理解に至るべきだ、ということだ。

 

私も教え始めて間もない頃は、まさに「教科書で教える」教え方をしていた。自分で準備した教案をそのまま教え込むということをしていた。その教案も思い返せばクオリティの低いもので、教えるべきポイントをぶつ切りにしたものを脈絡なく提供していたにすぎない。要するに、全くストーリー性のないお話をただ提示していたのだろう。「桃太郎」でいきなり鬼がでてきて、そのあとおばあさんがでてきて、最後に桃太郎が登場となっては支離滅裂極まりない(笑)

 

もちろん授業にストーリー性を持たせることは意識していたが、実際にやってみるのはすごく難しい。それでへこたれながらも、ようやく少しはストーリー性をもたせられるようになってきた。その上で、今度は「どう教えるか」について意識を強くしていった。これもまあ、教える人間のキャリアアップとしては自然な流れだと思う。これがおそらくは「教科書で教える」方法の第一歩だと思う。

 

例えば、原子の結合は誰が教えてもその事実は変わらない。インプットする内容が同じなわけだ。では、なぜあの教え方が良くてあの教え方が良くないといった差別化が生まれるのか。それは「どう教えるか」で決まるのだと思う。よくなされるのが原子の擬人化である。例えば、イオン結合であれば、ジャイアンを非金属、のびたを金属になぞらえて、ジャイアンのび太が物(=電子対)の取り合いをしていてジャイアンがそれをやすやすと奪う。その結果奪った側は陰イオンになって奪われた側は陽イオンになる、といった流れの説明だろう。淡白にデンキインセイドガーと教えるよりはずっとインパクトを持って頭に入りやすいと思う(もちろんこれもウケる生徒とそうでない生徒がいるのでその点は注意しなければならない)。

 

そして、最近ではどうだろうか。実は、もはや授業がどうこうということはあまり考えていない。もちろん教案の作成や教務力の向上をおろそかにしているわけではないが、自分自身がそれよりも大事にしているのは「かかわり」である。そう、「生徒とのかかわり」だ。結局、授業内容をしっかりと受け止めてもらえるかどうかは、自分自身が信頼に足る人間と思われるかどうかにかかっていると思う。そのへんのよくわからないおっさんがすごく上手い授業をしていたら、たしかに「コイツすげえ」と思うかもしれないが、一方で、どこかで怪しむ/警戒するという気持ちがはたらくのではないだろうか。そうではなく、「この人にならこの教科の学力向上は託して良い」と思われなければならない。ちょっと成績が伸び悩んでいるときにそれを把握して声をかけられるか。生徒が関心を持っていることについて話をしているときに即座に遮るのではなく、耳を傾けているか(もちろん授業の邪魔はあってはならないのだが)。そういうことが、ハイクオリティな授業をするよりも今の自分にとっては一番大事なことである。

 

特にこのご時世、何かと人とのかかわりが希薄になっている気がするし、生徒自身も数年前よりそのかかわりを渇望しているように見受けられることが何度かある。その渇きを、こんな私でも潤すことができるのであれば率先してやる。今年は特にあの手この手で色々やっている。まだまだ不慣れな点もあるが、少しずつ、小さいけれど成果が見え始めている気がする。誰かのオアシスになれるように、これからも精進だ。