ツキアカリテラス

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効率よく暗記をするための3つのコツ

よく「〜が覚えられない」という声を聞く(不思議と今年はその声がとにかく多い気がする)。化学式が覚えられない、有機化学の反応が覚えられない、あるいは英単語が覚えられない、と様々である。

 

自分自身、このあたりは受験生時代には気合で乗り切った人間なので、「そら根性よ」となってしまうのだが、それではアドバイスにならない。そこでアドバイスのために色々調べるわけだが、過去の合格者たちのやり方も見ていると、多分これは真理だなと思うことは3つある。

 

①こまめに覚える

例えば暗記のための持ち時間が60分あったとしよう。そのときに60分かけて1回だけインプットするよりは、5分かけたインプットを12回こなした方が定着率は高い。いわゆる単純接触効果というやつだ。だから、力を入れて覚えようというよりはシャワーを浴びるように自分の体に染み込ませていくような感覚が良いと思う。

 

②アウトプットと並行して行う

暗記は特に五感を駆使した方が良い、1つの感覚ではなく複数の感覚で覚えた方が良いと言われる。だから例えば英単語で書くだけでなく暗唱も推奨されているのはそのためだと思う。とりわけ問題を解くという段になれば、そのインプットしたものを引き出すだけではダメで、使いこなせないといけない。そしてそれは別の感覚も使うということに繋がるから、より定着率も高まり一石二鳥なわけだ。だから完璧にインプットしてから問題を解いてアウトプットしよう、ではなく、車の両輪のようにインプットとアウトプットを同時並行で行う方がよい。英語や古典であれば単語や文法を覚えながら文章を読んでいく。化学であれば、無機化合物の性質や色を覚えながら問題を解いていくのだ。

 

③自分や他人と競い合う

暗記というのはどうしても孤独な作業になってしまう。点数に結びつくのかも自問してしまうだろうし、モチベーションもなかなか維持しづらい。そこで友達と暗記の進捗や、テストをして競い合うのはどうだろう(どうしてもおひとりさまで、というのであればアプリを使うとか、自分の成果を継続的につけていって向上しているのを実感するとかでも良いと思う)。それによって思っている以上に暗記のペースを上げることができるはずだ。

 

他にも効果的な方法論はあるかもしれないが、王道といえばこの3つ、特に①と②ではないかなと思う。

問題を解いていて詰まったときに自問すべき2つのこと

問題を解いていて詰まったとき。とにかく答えなければならない、というより、何か書いておけば最悪部分点は取れるだろう、という甘い考えのもと頓珍漢な答えを書いて結局バツを食らう、といったことは実際演習の答案を採点していてもつくづく感じる。恐ろしいのは、普段そんなミスをしないような生徒であっても、しばしばそんなミスをしてしまうことである。演習やテストで問題を解いているときは、初見の問題に出くわすことも珍しくないから、テンパってしまうのであろう。人間テンパると何をしでかすかわからない。そのスモールスケールでの事象がこのようなミスになるのだと思っている。

 

頓珍漢な答え、というのは例えばこうだ。電離平衡が絡んだ中和の問題、例えば酢酸を水酸化ナトリウム水溶液で中和するときに、水酸化ナトリウムについて平衡定数を考えてしまう、あるいは、銅と濃硝酸の反応を化学反応式で書くときに、水素を生じさせてしまう、さらにひどいときには窒素や酸素を生じさせてしまう、などである。

 

こういうときに自問してほしいのは「教科書になかった知識は使わない」である。基本的に大学入試の問題は教科書内容を逸脱しないようにできている。仮に逸脱する場合は問題文にその説明がなされているはずだから、それを読めばよい。もちろん、その教科書に載っている知識を正確に覚えておくというのは前提なのだけれど、それができているにも関わらず上記のようなミスを犯してしまうのは、テンパって自分で知識を作り出して、それで答えている可能性が高いのだ。自分で知識を作るなんてノーベル賞みたいなことは入試問題を解くときには一切必要ない。いつでも拠り所は教科書なのである。

 

また、例えば計算問題で手が止まってしまった場合に、その止まった段階でうんうん考えて、余計に沼にはまってしまうというのもよくある。この場合にも自問してほしいことがあって、それは「詰まったら問題文を読み直せ」である。特に近年の理科の問題はまるで国語の問題かと思えるほどに読解がカギとなる問題が多い。どこかで誤読をしているかもしれないし、読み落としをしているかもしれない。あるいは思い込みで議論を進めているかもしれない。だから、現状のトラブルばかりを直視するのではなく、手がかりの元となる問題文に戻るのが近道なのだ。

 

この点を気をつけるだけでも、問題への向き合い方はだいぶ変わると思う。心当たりのある方は一度実践してみていただきたい。

攻めて勝つか守って勝つか

前回は夏の勉強法について述べたが、この内容を見てもわかるように私は徹底的に基礎を固めることを重視する派である。そしてそのためには泥臭い反復練習も厭わない。だから授業では例題を示してその類題を解かせる、といったことも結構する。とにかく授業内でその手法を身につけてもらう/手法にある論理的背景を理解してもらうことが毎時の目標である。もちろん目の前の生徒によって臨機応変に手は変えるのだが、原則としては私はこのような立場をとる。確実にできなければならないことを確実にやり、差がつく問題も固めた基礎でもって踏ん張ってなるべく解く。それで十分だと思っている。いわば「守って勝つ」タイプの生徒を育てる、といったところか。他の科目とのバランスもあるので、とにかく担当科目の学力を上げる!ということに関してはそこまで積極的ではない。それよりはトータルでの底上げをかなり意識している。だから私の授業はやたら読解にこだわる、国語的なものになることもしばしばある。守るのであれば全科目において守備力を高めてあげたい、というのが私の思いだ。

 

もちろん、それとは逆の立場をとる講師もいる。つまり「攻めて勝つ」タイプの生徒を育てるのだ。いたずらに難問をやる、というわけではないのだが、できる限り発展的な課題を通して引っ張り上げ、得意科目に仕立てていき、その科目で大量得点を狙うようなスタイルだ。

 

もちろん、どちらも正しいし、できれば両方の思想を持った人に師事するのがベストだと思う。ただ、自分がどのタイプなのか、そしてどのタイプでこれからやっていくのかは決めておいた方がいいだろう。そろそろ戦略を具体的に固めていく時期だろうから。

夏の勉強法〜とにかく基礎を固める〜

もうすぐ夏休みが始まる。受験生にとっては最も重要な時期である。なぜ夏が重要なのかというと、夏期講習のセールストークとかそういった意味ではなく、それに関係なく大事なのだ。

 

やはり勉強のためにまとまった時間がとりやすいこと。これに尽きる。もちろん部活動がまだ終わっていない、学校の補習がある、など色々と時間を取られることはあるだろうが、それでも普段よりは時間をとることができるだろう。

 

何かをマスターするとき、少しずつ継続してやることが大切だとよく言われるし、私もそれについては大いに同意するのだが、それでもやはりどこかでブーストをかけないといけない。つまり、短期集中的に量をこなしてゴリゴリ手を動かす時期がどこかで絶対に必要だと私は思っている。そのタイミングとして、試験本番から逆算しても、まとまった時間が確保できるという点でも、夏がうってつけなのである。ここでしっかりと力をつけておかないと、後々の追い上げがかなり苦しくなる。

 

ではこの時期にどのような問題をこなせばよいのか。それはその人の置かれた状況により異なるのだが、絶対にやっていけないのは背伸びしすぎた勉強をしてはならないことである。周りのみんながやっているから同じ問題集をやる、といったケースでこういうことがありがたいだが、とにかく基礎が不安定であればそれを徹底的に固めることを薦める。そのためには教科書レベルの問題にまで立ち戻っていいと思う。というより、立ちもどれる最後のチャンスがこの夏なのだ。それを過ぎると、残された時間が少ないので、どこかで力技で、荒療治でねじ込むということが必要になってくる。そしてそれはどうしても負荷がかかりすぎるし、ねじ込みきれない可能性も往々にしてあるので、極力そうならないように、夏である程度基礎固めをしておく必要がある。

 

具体的には、国公立大学であれば、入試標準レベルの問題を確実に解けるようにすることだ。苦手であれば共通テストレベルをマスター、でもいいと思う(もっとも共通テストは形式がかなり違うしクセも強いのだが)。一部の国公立は共通テストで配点が5割、あるいはそれ以上あるところもあるから、その場合はより一層共通テストレベルを完璧にすることが要求される。

 

もちろん、問題の解き方を暗記するのではダメだ。それを見たことのない問題にも適用できてはじめて、基礎が身についた、ということになる。そのためには、自分の解答プロセスを論理的に説明できることが大切だ。他人に解説できるようになること、あるいは、白紙に自分の解答プロセスを文字起こしできるようになることが到達目標と言えるだろう。

 

個別に言えばもっと細かい話になるのだが、最もざっくりシンプルに言えば、夏の目標はそういうことになる。これを逆算的に予定を組んで、定期的にリスケジューリングしながら進めていくことが大切だ。

和田裕美さんに共感した話

今見たら、予約投稿の日付を間違っていて7/7に1日抜けてしまっていたようだ(泣)

 

さて、本題。学生時代にビジネス書やら自己啓発書やらを読み漁る機会があった。自己啓発書に関しては「とにかく行動しろ」など色々と背中を押すような言葉があって、当時の私はそのような本を読んだことがなかったものだから、結構インパクトを受けたものだ(若かったなあ、、)。今は、どれも似たり寄ったりじゃないかという思いがあり、まさに動いて自分の身にならないとダメだと思って、こういった類の本はほとんど読んでいない。たぶんD・カーネギーの本を読んだのが最後だろうか。もうこれが原典でいいやという気になって。

 

しかしD・カーネギーの本を読んでからも、自己啓発系というか、実際にはビジネス系にカテゴライズされるのだろうけれども、読んでいた本がある。それが和田裕美さんの本だ。

 

自己啓発系の本を読んでいると、提唱する人たちは気持ちが強いというか、すごくポジティブなんだなということをつくづく感じる。私はその正反対で、まず何かをするときにはとにかくワーストケースであったり、生じうるリスクや悪い結果をとことん考えようとする。で最後はもうめんどくさくなって、やるしかないと腹を決めて、えいやっと行動に出てしまうのだが、やはりどうしても尻が重い。それに、悪い結果になったときにはとことん落ち込んでしまう。引きずることはそんなにはないが、ないわけではないし、ふとしたときにあの時の記憶がふと蘇って、また自己嫌悪に陥ることは日常茶飯事といってもいい。

 

とはいえ、実際に何かをするときにはリスクマネジメントはしっかりすべきというのが持論で、いわゆるポジティブシンキングというのは私には受け入れがたいものであった。しかし、この和田裕美さんは少し違った。彼女の著書を読んだ人なら誰でもご存知だろうが「陽転思考」と言われるものだ。端的に言えば「何か悪いことがあったらとことん落ち込んでもいい、けれどもそこから”よかったこと”を探して次につなげよう」といったものだ。

 

これまた私にとっては斬新な切り口で、ポジティブシンキングというのは常に明るく振る舞うという点で、自分の負の気持ちを封印するようなイメージがあってどうしても受け入れがたいものだったが、それを吐き出してもいい、というのには共感したし、心が軽くなった気がしたのである。もし自分が誰かを諭すときには「悪いことは考えるな」って口が裂けても言えないもの。それよりは悪いことを考えて落ち込んだときに寄り添える人間でありたい。以来、私にとって「前向きに考える」ということについてはこの陽転思考の考え方が基盤になっている。

 

もっとも、それ以外にも仕事に対する考えなど、和田さんに共感できる素地があったからこそ、こういう考え方はスッと入ってきたのかもしれない。いずれにしても、全く私と性格や思想が異なるような人の考えはここまでスッと入ってこなかったんだろうなと思う。そういう意味で、私にとって和田裕美さんは色々と読んだビジネス書の中では一番参考にさせていただいた人である。

憧れの人は自分に似ている人でいい

他人を変えることは難しいが自分を変えることは簡単である。だから自分を一皮むけた存在にするには、自分自身を変えたり、自分自身が身を置いている環境を変えたりする方が良い、これは確かにそうだと思う。

 

では自分を変えるにはどうしたらいいのだろうか?おそらくは自分がなりたい存在、憧れの存在というのを1つのロールモデルにして、それを目指していくことが1つの手だろうと思う。私もいろんな人をロールモデルにしてきた。遠い人間であればイチローみたいなスーパーヒーローだし、近い人間であれば音楽仲間とか。

 

イチローという例を挙げたが、彼の言葉は本当に刺さる。しかし、どこか鋭すぎて自分が傷ついてしまうような気がするのだ。自分とイチローはいろんな面でかけ離れすぎている。だから、いくらイチローをリスペクトしたといえども、その存在に近づくためには変えていくもの、そのステップが多すぎて、一生かかっても難しいのではと思う。それは音楽仲間でもそうである。やはりいろんなものが私とは相反的であり、そう簡単に目指せる存在ではない。何かを目指すことにより自分を変えようとしても変えられないとき、その何かとの物理的な近さというのは大して問題ではない。自分と対象とするものとの特性の大きさ、これが問題なのだと思う。

 

だから、自分を変える、成長させるときに、その目標として、いきなり高い位置にいる存在を目指さなくてもいいのでは、と思う。それでかえって疲弊して挫折してしまっては元も子もないからだ。まずは自分と性格や価値観が似ている、発信している内容に首がもげるほど頷く対象を見つける。そして、その中でも向こうが秀でていることや先を行っていることがあるだろうから、自分もそれを真似してみる。これをまず目指してみてはどうかと思うのだ。価値観が似た人ばかりを周りにおくことは視野が狭くなるという意味ではリスクが高いということに関しては自覚的でなければならないけれど。そして一旦その対象が見つかれば、それを起点にして、また枝葉が広がるようにして憧れの候補は増えていき、より前に進みやすくなると思う。

 

この件に関しては私自身も学生時代に経験があるので、次回そのことについて書いてみたい。

生徒の字の汚さを静観した話

よく世間で言われるのが「字の汚い人は頭がいい」ということだ。頭の回転に手が追いつかず、字が乱れてしまうという本当のような嘘のような理由である。少なくとも私の経験上は頭の良さと字の汚さはそこまで相関がないように思う。頭がいい人に字が綺麗な人もいれば字が汚い人もいるし、頭が良くない人(字にすると失礼極まりないな、、)においても同様である。

 

ただ、私は字の汚さについては最低限第三者が判読できればいいと思っているので、特に矯正しようとは思わない。字を綺麗にすることに意識がいきすぎて、かえってそれまで持っていた強みを失う可能性があるからだ。

 

私の中で過去で字の汚い生徒といえば真っ先に2人思い浮かぶ。1人はノートに大きな、かつ不揃いの字を書く生徒だった。初めて出会ったのは高2のときだった。ひどいときはB5のノート1ページに4行ほどがキツキツに入るくらいの大きさで書くのだ。しかし、その生徒はクラスで随一の鋭い質問をいつも授業後に持ってきていた。私も回答していてすごく楽しかったのを覚えている。これは切れ者だとすぐにわかった。で、字については指摘するかどうか悩んだのだが、彼はマルチタスクが得意でないと見受けられるところがあり、さらに冷静さを欠きやすいこともあったので、まあ読める字ではあったしそのまま何も言わないでおいた。結局ちょっと色々あったのだが、字の大きさはそのままに見事第一志望に合格した。果たして字を矯正していたら結果はどうなっていただろうか、今となっては誰もわからない。

 

もう1人の生徒は、先ほどの生徒を上回る字の汚さであった。字は小さくしかも筆圧が弱い。寝落ちしたときにうっかりノートにシャーペンで滑らせたような字である。本人曰く「自分でも読めないときがある」らしい。さすがに模試のときは少しは綺麗に書くらしいのだが、実際に答案を見せてもらったところ、そこまで大差はないように思えた(笑)しかし、模試の採点官は確実にその生徒の字を判読できていたので、やはり何も言わずにいた。結局本番は二次試験の数学で満点を取り、見事に合格した。本番は果たしてどの程度の綺麗さで書いたのかが気になる(笑)

 

上記はかなり極端なケースなのかもしれないし、文字の乱れは心の乱れ、というのは一理ある。しかし、字を綺麗に書くことが至上だと思い込んで、過度な指導をするあまり、その生徒のバランスを崩すことに関して無頓着ではいけないなと思う。