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FAXは全廃すべきか?

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個人的にもFAXは無くしてしまえるのなら無くしてしまった方がいいと思うのだが、それでもデータだと容易に無限コピーが可能になってしまうので、そこのところが気持ち悪い。そう思えば、これだけデジタル化の恩恵を受けてもなお生き残り続ける紙文化だとかFAX文化だとかはすごいなと思う。

 

もちろんFAXだと送り間違えなどといったリスクもあるのだが、デジタルツールにおいて想定されるリスクはあまりないのではと思う。そして実際、サーバー障害などがしばしば発生している状況を考えると、狙い撃ちにされるのはどちらかといえばデジタルツールの方だと思う。そのへんが、FAXが比較的不便でも棲み分けできている理由なのかもしれない。

 

そもそも、メールかFAXどちらかに一本化というのがおかしいのではと思っている。その点で私は「便利だから」というような安易なFAX全廃論には反対の立場だ。どちらにも便利なところ、不便なところはあるはずで、適材適所でうまく活用するのがベストなのだと思う。こちらがいいからこちらは用無しとしてカットしていくのは、最近効率化だのなんだの叫ばれている昨今ではしっくりくるやり方なのかもしれないが、なんでも効率化に走るというのも個人的には問題だと思う。それはある事柄に関する生産性を向上させるには良いとしても、その代償として大事な何かを失うことにつながる気がするのだ。

教材における問題の構成

作曲において「曲先」や「詞先」という用語がある。文字通り、前者は先に曲を作ってそれに合わせて歌詞を乗せること、後者は歌詞を先に作ってそれに合わせてメロディをつけることである。おそらく楽器演奏を経験した人は前者が多いのではと思う。もちろんどちらが良いというわけではないのだが、私自身も楽器を嗜んでおり、曲先はまあ問題なくできるのだが、詞先はやってみたいとは思うのだが、どうやったらいいか全く見当がつかない。というより、歌詞が書けない(笑)たぶん、表現のストックが全くないんだろうなと思う。

 

で、音楽の話をしたいのではなく、今回は教育の話(ややこしい)。というより、教材作成の話だ。上記のことは教材作成、特に問題選定においても似たようなことが当てはまると思うのだ。


つまり、まず問題を選定して、それを何らかの構成順に並べて作る場合と、まずその単元における到達目標なりストーリーなりを作り、それに合わせて問題を選定する場合である。


かつては私は前者の方法で教材を作っていた。とりあえず典型的な問題をバーッと集めて、それを難度の順に並べていたのである。これでも、問題の選定次第では十分にいいものができるのだが、どうしても問題どうしの連関が薄くなりがちであり、いろいろな問題を解ける力は養われるかもしれないが、体系的に学習内容を理解するには少し難しい部分がある。それを使う人の力量に大きく左右されるといったところだろう。


それで、数年前からは後者の方法で作っている。その単元で何を身に付けさせたいのか、そして学力のレベルも考慮しつつ、どういう問題ができなければならないのか(ここは入試に頻出なのかどうかももちろん考慮する)を考え、なるべくそれに合致した問題を選定していくのだ。もちろん前者よりはクオリティの高いものができるのだが、なかなか見合う問題がなかったり、あったとしてもだいぶクラシックな問題になってしまうので、作成に時間がかかる、選定でのエネルギー消耗が半端ない、といった難点がある。この方法で作る場合は早めにスケジューリングして作っていかなければならない。


それでも、やはり教材作成は授業同様妥協できない、してはならないところだと思うので、夜なべをすることがあれども、いいものを作るという気持ちを強く持って作成にあたりたいと思う。

ポジティブ思考かネガティブ思考か

私はよく他人から悩み事がないだの楽観的だの言われることがしばしばある。もちろんそんなことはない。日々授業の出来の悪さに落ち込み引きずり、ここはああ言ったら良かったなと反省しているし、それ以外にも生きていりゃ何かとあるから悩み事なんていくらでも出てくるのだ(意味深のように見えるが別に他意はない)。

 

でも、ポジティブでいようとする意識は強く持っていたいと思っている。やはりそのときの機嫌や、更に言えば人の思想というのは多かれ少なかれ伝染してしまうものだ。せっかくのご縁で近くにいる人の気分を悪くさせるのは私のポリシーに反する。だからなるべく人に対しては明るくなるような言葉かけなどをしていきたいと思っている。そうせずに、何かにチャレンジする人に対して「いやあ、あなたはもしかしたらこういう悪い結果になるかもしれないから」と言葉かけをすると、チャレンジして成功できるものもできなくなってしまうおそれがある。

 

では、ネガティブ思考が完全に悪なのかというと、そうでもないと思う。ネガティブ思考の一つに「未来に起こりうる悪い結果を想定する」というのがあるだろう。何事も猪突猛進でいくよりは、起こりうる最悪のケースは何か、そしてそれを回避するにはどうしたらいいのかを考えて動いた方が良いと思う。そういう意味では、ポジティブ思考というのも果たしてよいものかどうかわからない。「自分はなんとかなる」と、何も準備をせず、将来に向けて行動するのはさすがにまずいと思う。

 

おそらく、どちらが良いというのも悪いというのもないのだが、たぶん、「内向きのポジティブ思考」や「外向きのネガティブ思考」は必ずしも良い結果を生まないのかなと思う。必ずしも、というのはここも断定し難いということ。例えば、目先のことしか考えない人に対して先述のように「いやあ、あなたはもしかしたらこういう悪い結果になるかもしれないから」ということは、違う視点を与える点で有効だと思う。

 

人への言葉がけほど難しいことはないが、軸としては「外向きにポジティブ、内向きにネガティブ(この表現もなんかしっくりこないな、、慎重の方がいいのか?)」であればいいのかなと思う。

生物の勉強法

私は化学を教える仕事をしているが、実は専門はバリバリの生命科学である。だから生物の質問を受けることもしばしばある。特に定期考査前は質問が多い。

 

ところで、学校のカリキュラムのため、本来物理と化学を選択するのであっても、生物を履修しなければならないケースはかなりある。私も高1の頃は化学がメインで、半期で生物と地学をやり、高2以降は化学+物理・生物・地学のいずれか、といった特殊なカリキュラムだった。だから地学もほんのちょっとだけは分かる。それで、もう私は物理と化学を選択する!といった高校生も少なからずいるわけで、その場合は生物が結構な負担になるわけだ。

 

例えば代謝について。光合成や呼吸は色んな化合物や酵素がでてきて、かなりややこしい。どこでNADPHが関わるかとかも含めると気が狂いそうになる。この場合は、落ち着いて教科書や教科書傍用問題集を確認してほしい。基本的にそこに書かれていないことが知識問題として出題されるとは限らないのだ。だから極端な話、そういったものは暗記する必要がない、ということになる(これは他の科目についても当てはまる)。

 

この、教科書に記された知識というのが、実にポイントを突いていて素晴らしいとつくづく思う。ざっくりしすぎず、細かくなりすぎずという絶妙のバランスを保っているのだ。そしてこれを把握するということは、暗記にも有用であると思う。

 

大学に入れば生物学の知識はもっと広くなる。例えば細胞内のシグナル伝達に関しても、多岐にわたる上、同じシグナルであっても細胞によっては異なるはたらきをもたらすものも少なくない。これに関して、学生時代に教わったアドバイスが「シグナル伝達はまず概要を理解せよ」ということである。つまり、細かいこと全部を押さえるのではなく、このシグナル伝達機構は始点はどのような物質で、最終的にどのように機能するのか、レセプターはどのような作用機序をもつのか、転写調節因子であれば核内に移動して直接はたらくのかなど、まずはざっくりとしたあらすじを押さえることが大切なのである。その上で、細かいところを押さえていけば覚えやすいと思う(といってもその細かいところは専門であればともかく、そうでなければその都度調べる、というのがよくあることだと思うのだが)。

 

まずは要所を押さえる。これが特に生物における暗記のコツだと思う。オキサロ酢酸だ、ルビスコだと覚えようとする人に限って、呼吸は酸素を取り込むために行う、光合成は酸素を放出するために行う、といった少しずれた理解をしているケースが多い。そうはならないように気をつけながら、楽しみながら覚えていくのが良いと思う。

断捨離しなくてよかったこと

私は物持ちが良いというか、物が捨てられない性分である。世間ではミニマリストだの断捨離だのが流行っているのに。年に数回、思い切って捨てることはあるのだが、それでも本当は捨てた方がいいのにと思いつつ、捨てられないものはたくさんある。書籍類はもちろん、大学の学部時代のテキストやらレジュメやらも残している。さっさとスキャンすればいいものの、やはりパッと取り出せる便利さを考えると物として残しておきたいわけで、あとは何よりスキャンが面倒なので(むしろ便利だとかいうのはその言い訳かもしれない笑)そのまま場所を占領しているのである。

 

断捨離の基準でよく言われるのは「1年以上使わなかったものは処分」だ。それ以降は使わない可能性が高いからということらしい。しかし、そうやって軽率に処分して良いものかと言われると、少し疑問が残るのである。

 

先日、授業準備をしていたときのことだ。どうしても分からなかったことがある。しかし、過去に必ずどこかで同じことを調べていたことは記憶している。でもその文献がわからない。それで、あれこれ本棚を探していて目当てのものを探すことができた。その文献は学部の頃に一般教養の物理化学で使っていた、吉岡甲子郎先生の「化学通論」という本である。物理化学ならアトキンスだろと思われがちで、実際私はアトキンスも持っているのだが、それでも絶妙なコンパクトさと簡潔な文体が使いやすくて、ずっと捨てられずにとっているのだ。単に物理化学の本であれば、断捨離をすれば、たぶんアトキンスを残すのだろうが、こういう調べ物は複数の文献から多角的に調べる方が良い場合は往往にしてある。だからどうしても捨てられないのである。この本を開くのは年に数回しかないのだが、それでも役に立つ場面はこういうふうにあるものだ。大学で研究をしていたときに多分そういう考え方を身につけたのだろうと思う。

 

紙ものの本ではなく、ファイルであっても同じである。別で調べ物をしていたときに、塩漬けにされていたpdfファイル(しかも適当な名前のつけられたフォルダにあったという笑)で調べることができたことがある。どこで役立つかわからない。大学のころの研究データや実験書も一部保存しているだが、それが作問で参考になったこともある。

 

いつ役立つか分からなくて捨てるのが不安だから、やはり断捨離は私には無理なのかもしれない、、

みんなが使っている参考書はあなたに合うとは限らない(後編)

前回の続きである。参考書や問題集の選び方は、みんなが選んでいるから、人気があるからという理由で選ぶのではなく、自分のレベルと参考書や問題集のレベルを比較して「頑張れば手がとどくレベル」のものに取り組むべきだ、ということだった。

 

では、適切なレベルの問題集で良いのかというと、これも必ずしもそうとは限らないと思うのである。

 

大抵の場合、適切なレベルの問題集といえば、入試標準レベルとなる。そういったレベルで化学であればダントツで人気なのが「化学重要問題集」である。昔であればほぼこの一強であったが、最近はその座を脅かすような問題集も少しずつ増えている。一番の対抗馬は「化学頻出!スタンダード問題230選」であろう。

 

化学重要問題集において、最大のウィークポイントは解説の薄さである。私もよく重要問題集の解説を見せられて、これってどういうことなんですかという質問を受ける。この弱点を補強し、問題についても典型的なものをほぼほぼ網羅したものが「化学頻出!スタンダード問題230選」である。とにかく解説がわかりやすく丁寧である。特に自習メインで受験勉強を進める者にとってはこれ以上の問題集はないのでは、と思う。私自身も、よほどのことがなければこちらの方を薦める。

 

しかし、状況によっては私は重要問題集を薦めることもある。理由は色々あるが、例えば「学校で課題として提出させられる」「レベルの高い友達(大体の場合その当人もそれなりのレベルである)と重要問題集を解くのを競い合っている」の場合である。

 

前者の場合は、受験勉強の負担軽減が目的である。同様のレベルのものを2冊やるよりは、1冊やり切った方がモチベーションも上がるものだ。学校で「化学頻出!スタンダード問題230選」が配られるのであれば私は泣くほどに嬉しいのだが(笑)、そんなわがままも言っていられない。

 

後者の場合は、友達どうしで教え合う、競い合う効果は絶大だと思っているからだ。すなわち、人が集まる場があり、志望校は違うが共通の目的を目指す人たちがそこで助け合い、切磋琢磨し合うことが、大きな教育的効果を及ぼすと思っていて、その点で教室授業はオンライン授業に完全にとって代わられることもないと思っている。その繋がりと熱量を、自分が推す本で介入することは私にはできない。「この本で競い合ってみたら?」という言い方もできなくはないが、それでも多かれ少なかれ、彼らの伸ばそうとする枝を折る行為であり、それが長い目で見たら大きな損失になると思うのだ。もちろん残念に思いながら推薦するのをやめるのだが(笑)

 

相変わらずとりとめもなく書いているが、さすがにそろそろまとめたい。適切なレベルの本であっても、それを激推ししたり薦めなかったりする。昔は、これさえやっていれば大丈夫というような王道の参考書を探し、それを薦めるようなことができればいいなと思っていたが、今はむしろ王道の参考書はないと思っている。みんなが使っている参考書はあなたに合うとは限らないのである。それほどに参考書・問題集選びは繊細な問題を含んでいると思う。まだまだ自分もこういった指導については精度を上げられていないところがあるので、精進したい。

みんなが使っている参考書はあなたに合うとは限らない(前編)

仕事柄、問題集や参考書に詳しくなってしまうし、本屋に行くとそういうコーナーに必ず足を運んでしまうものである。そもそも、私自身が受験生だったときも半分参考書オタクみたいなところがあり、暇さえあれば高校の近所にある本屋に立ち寄っていた。そう考えると今の仕事はその頃のオタクっぷりを発揮できているという点で天職なのかもしれない(笑)

 

ところで、生徒が使う問題集や参考書は、どうしても人気に偏りが出てしまう。たしかにその評価と、世間一般の評価というのはおおむね相関がある。化学であれば「化学重要問題集」「化学の新演習」、物理であれば「名問の森」「橋元の物理をはじめからていねいに」といったところだろうか。

 

しかし、問題なのは、その人気“だけ”を評価軸として問題集や参考書を選ぶケースが少なくないということである。参考書だけでない。予備校の受講講座においてもそのような傾向がある。これに関して私は否定的ではあるが、安易に否定し難いと思っている。たとえ人気だけで受験の伴侶を選択したとしても、そこでモチベーションが高まり、特に自学自習という点では大きな成長を遂げることがあるからだ。それでも、参考書や問題集のレベルと自分のレベルが大きく乖離している場合は話が別である。少なくとも私の経験上、それで飛躍した受験生は皆無である。

 

受験勉強でいきなり「化学の新演習」を始めるケースや、クラス認定がとれたからといって自分の実力の遥か上の講座を受講し、そこで結局ちんぷんかんぷんでほとんど定着できていないケースを見たことがある。いずれも基礎がすっぽ抜けているので、難問はおろか、入試標準レベルですら苦戦している状況だった。

 

入試問題はある程度経験勝負なところがあり、いわゆる典型問題をどれだけ解いたか、自分のものとして消化したかが問われると思っている。ここで大事なのは解いた量ではなく、質も追求しなければならないことだ。やったことのある問題だけが解けるのでは結局実力になっていない。見たことのない問題に対して、やったことのある問題と同じアプローチがとれて初めて、実力がついたことになるし、基礎が完成したということになる。その基礎を完成させるためには、時期にもよるが志望校はひとまず置いといて、ちょっと頑張れば手がとどくレベルの教材に取り組むが良いと思う。そしてそのレベルというのは、大人であればともかく、案外自分では判断できない。第三者の意見を聞くのが時短にもなるしベストだと思う。

 

おそらくプライドもあるのかもしれないが、それをさっさと捨てられるかというのも受験勉強では大事なことだと思う。周囲の評価に惑わされず、身の丈にあった問題集・参考書選びをしていただきたいと思う。

 

では、レベルにあった参考書だと良いのかというと、そうでもないところがある。長くなったので続きは次回。