教えられる人から選り好みをされる教師
前回は生徒側の立場で、教える人を選り好みすることの危うさについて述べたが、一方で、教師/講師も選り好みされることについては危うさがあるということを今回は述べたいと思う。
人間、誰しも誰かに認められたい気持ちはある。いわゆる承認欲求である。だから、自分を慕う生徒がいればどうしても可愛げのある存在に見えてしまうものだと思う。と同時に、そういう生徒たちの存在は、自分の行いが間違っていないことを確信させてくれる。
しかし、それにあぐらをかきすぎるというか、その危うさに気づかずに、そういったフォロワーを集めることに拘泥することについては慎重でありたいものだと思う。承認欲求の海に溺れてしまうと、行き着く先は承認してくれない人間の排除だ。前回も、生徒にとって多様な考えを受け入れられないということを書いたが、これは教える側にとっても同じである。周りにちやほやされ、それを当然のものと思ってしまうと、やはり多様な考えを受け入れられなくなるのだ。これは生徒がそのような呪いにかかってしまうよりも深刻な問題だと思う。人生経験が浅く、どうしても視野が狭くなりがちな生徒の手を取って、多様な価値観を見せるのは大人の大事な役割だと思うからだ。同じような人間を再生産してしまうことになる。
特に最近は、物事を「見られるべきように見る」のではなく、「見たいように見る」人が世の中には想像以上に多いと感じることがしばしばある。偉そうに書いているが、私だって、もちろん気をつけているが、そういう見方をしていることは否定できない。もしかしたら、人間のもつ特性として一般的なものなのかもしれない。だからこそ、自分が行きすぎた承認欲求に呑み込まれ、ダークサイドに堕ちていないかは定期的に自問する必要があると思う。