ツキアカリテラス

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平常授業の最終回

冬期講習が目前ということで、今年の平常授業が続々と終わっている。特に高3は、これから講習しかないので、事実上の最終講義ということになる。

 

よく最終講義というと、最後に授業内容とは関係なく、熱いエールやスピーチをしたり、ちょっとしたパフォーマンスをしたりするケースが多い。私も教え始めたときはそういうことを少しやっていた。

 

だが、今はやっていない。普段と終わり方はなんら変わらない。

 

色々と理由はあるのだが、一番大きな理由は、ここで終わりという印象を持たせたくないからだ。

 

受験というのはもちろん自己鍛錬の結果が反映されるものだが、それと同等に精神の勝負であるとも思う。秋ぐらいまで鳴かず飛ばずだったのが、何かに取り憑かれたように追い込みをかけて見事合格したケースもあるし、センター試験直前まで順風満帆だったのに、ふとあまり姿を見なくなり、フタを開けてみたらセンター試験は目標に遠く届かず、その後の追い込みも結局不完全燃焼になり、第一志望校に合格できなかったケースもある。合否が決まるその日までいかに緊張の糸を張り続けるか、しかし張り詰めすぎて切らさないようにするかが大切なのだ。

 

それなのに、ここで一区切りみたいな形である意味でエンディングみたいなものを設けるのは、その点で逆効果だと思う。いや、もちろん、発奮するケースもなくはないと思う。だが、恥ずかしながら私にそこまでのカリスマ性も話術もないので、逆効果に終わるリスクが高いと思うのだ。たとえあったとしても、そういう見せかけだけで成長したつもりにはさせたくはないのだが。

 

受験とは非日常なイベントである。非日常になると普段通りのパフォーマンスがなかなか発揮できないケースが多い。よく塾内のテストでは好成績をおさめていたのに、試験本番になると鉛筆を持つ手が震える、という話を聞く。人によっては「試験会場には魔物が住んでいる」などと形容するのだが、これはあながち間違ってはいないと思う。

 

だから、受験というのは日常の1ページにすぎないことを感じさせたいとも思っている。最後の授業でもいつも通りここができてないぞとダメ出しをしたりつまらないギャグをいったりボケる生徒にツッコミを入れたりしたいのだ。

 

そもそも、勉強など受験の有無に関係なく終わりなどない。人はずっと学び続けなけて知のアップデートを繰り返さなければならない。最終講義などただの通過点でしかないのだ。

大学入試間際だからこそ確認してほしいこと

共通テストまで50日を切った。また今年も入試が始まろうとしている。おそらく多くの受験生は最後の追い込みということで、過去問の演習に邁進していることだろうと思う。

 

ただ、この時期だからこそ、もう一度確認してほしい。

 

「本当に基礎は完成していますか?」

 

多くの問題演習をこなすと、それだけ経験は豊富になる。しかし、経験が豊富になったからといって、合格に必要な力がついているのかというとそうとも限らない。

 

入試では当然、「今まで見たこともない問題」が出題される。もしかしたら一見「やったことのある問題」なのかもしれないけれど、どこかの設定が違っていたりして、完全に一致する問題は皆無である。そして、そのような問題を解くためには、パターンラーニングでは到底無理である。つまり、演習した問題数といった物量作戦では、とりわけ大学入試をパスすることは非常に厳しい。

 

では何をもって合格に必要な力が身についたとみなすべきなのか。何をもって「基礎が完成された」とみなすべきなのか。一つの尺度としては「解法を、目の前の問題に合わせて微調整して適用すること」だと思う。言い換えれば、あらゆる問題が、やったことのある問題を解くのと同じ感覚で解けるようになることが到達点だと思う。

 

一度、問題を解いているとき、自分がどういう思考回路なのかを意識してほしい。そのときに、過去にやった問題を検索してはいないだろうか。もちろんそういうことは多かれ少なかれ必要なのだけど、それが問題を解くときのメインの作業ではない。拠り所は自分の問題を解いた記憶ではなく目の前の問題なのである。問題文にこう書いているから、ああ、この問題は前にやったこの問題と同じようにして解けるな、だとか、いや、問題文を読むと、前にやった問題とここが違うぞ、、ではここをこうしたらうまく適用できるのではないか、という思考回路を取れるかどうかだと思う。

 

解法は出来合いの料理のようにそのまま出していいものではなく、食材のようなものである。それをうまく調理するというステップをちゃんと踏んでいますか、ということを自問してほしいのである。

 

問題を数多く解いていると、できたつもりになったり、基本に立ち返ることを忘れたりすることは多い。それでは結局力が身についていないのと同じである。この時期だからこそ、もう一度当たり前の大切なことを考えてほしい。

年下でも後輩でも敬語を使う

前にも書いた通り、私も勤続10年、すっかり歳をとったものである。私が仕事を始めたときの、10年先輩の人のような存在感を纏っているかというと、それはないだろう、、と思うのだけど。

 

ということで、私よりも年次が下の人が随分増えてきたし、もちろんアルバイトもどんどんと社会人になって入れ替わり立ち替わり、である。

 

たまに聞くのが、いわゆる正社員の人たちは、アルバイトさんやパートさん(パートさんは年上であることが多いのであまりそういうことはないと思うが)に対して不躾な態度をとることが時々あるということだ。幸い、私の近くでそういう話は皆無なのだが。

 

不躾な態度というのは暴言を吐いたりすることではない(それはもはやパワハラだ、、笑)。ちょっとした会話で下に見たり、小間使い的な人とみなしたりするような対応をとるのだ。昔でいえばお茶汲みみたいなものだろうか。

 

私自身はアルバイトであろうが正社員であろうが、「スタッフ」という一括りではいずれもフラットな立場にいるものだと考えている。ましてやアルバイトの方が歴が長ければ向こうの方がベテランだとさえ思っている。そういう態度を取るなんてもってのほかだ。

 

そしてそれは、言葉遣いにおいても表れるから、注意しなければならないことだと思う。私は社員のキャリアだとかアルバイトだとか関係なく基本的に「スタッフ」とは敬語で接する。かつて私の昔の教え子であったとしても、だ。

 

いくつか理由があるのだけど、まず1つは「敬語で話さないことが暗黙のうちに上下関係を生む」ものだと私が思っているところだ。考えすぎなのかもしれないが、これはあながち間違いではないと思っている。片方が敬語で話し、もう片方がぶっきらぼうに話す。端から見れば確実に上下関係が成立していることは明白だろう。

 

それと同様に、誰かを呼び捨てにしたり、「君」付けで呼んだり、あるいは肩書きを付けて呼んだりするのも私はしない。これをやたら多用する人は正直、マウンティングが好きなのかなあと思ってしまうのだ。そういう意味では、私も「〜先生」ではなく「〜さん」と呼ばれたいものなのだが笑

 

そしてもう1つの理由として「敬語」は「適度な距離感」を生むものだと私が考えているからだ。仕事においては私情をなるべく挟まない方がいいと考える。やけに距離が近すぎても、それは馴れ馴れしい昭和のおじさんみたいになってしまう。これは特に昔教え子だった子がアルバイトとして入ったときによくあることだと思う。だから、仕事人としての付き合いとして最低限の「壁」を作るために敬語を基本的に用いる。

 

こんな人間だから、よくプライベートでも敬語を使って話はするのだけど(よほど打ち解けるともちろんそうではない)、向こうが端から敬語を使わないこともあり、敬語を使わなくていいと言われることが時々ある。こちらにも色々と意図はあって敬語を使っているのに、そう言われるとその使い方を他人に制限されているような気がしてあまりいい気分にはなれないのである(笑)少なくとも私にとって敬語を使う/使わないが仲の良さの尺度だということは決してない。敬語で話さなくてもあまり付き合いたくないなという人はいるし、敬語で話していてもこの人はずっと付き合いたいなという人もいる。あくまで人として最低限とるべき距離を保つために、敬語を使っているだけのことだ。

 

そういえばこのご時世でソーシャルディスタンスという言葉が流行った。だが、本当のソーシャルディスタンスというのは、その1つに敬語を使うかどうか、というのが含まれていると思う。

学力が伸びる機会を失わせる2つの方法

何かの縁で私の授業を受けることになった生徒。もちろん、そのまま受験まで面倒を見てあげたいところなのだが、色々な理由で授業を切られてしまうことがある。そして、それは私に限ったことではなく、他の講師でもそうだろうと思う。

 

色々な理由というのは、恥ずかしいことに学力が向上したと感じさせてあげられなかった、そもそも私の授業(あるいは私のパーソナリティ)が生理的に受け付けなかった、といった講師本人の要因もあるし、他教科の成績が低下してそちらの向上に注力したり、これは私教育ならではの理由だと思うが、家が遠方で通うのがしんどい、経済的に厳しい、といった生徒側の要因もある。

 

ただ、いずれにしても言えるのが、一度授業を切った以上はそれを埋め合わせなければ確実に学力は低下するということだ。これは私の授業がそれだけ成績を上げられるという自慢でもなく、他の授業においても同じことである。やはり何事もやらなければ力が衰えるものである。

 

そうして、例えば受験学年になってまた授業に復帰したときに、昔あれだけできていたのになんで?という事象も数多く見てきた。ここから盛り返したとしても、昔のようなできる状態にすら到達できないことが多い。ずっと授業を受けていたらな、、と思ったことが何度もある。単に私の指導力が足りないせいかもしれないので傲慢な意見なのかもしれないが。

 

では、とにかく勉強しよう、できるだけ問題を解いて質的にも量的にも上げていこう、ということが正しいのかといえば、それもまた違うと思うのである。部活の忙しさや高目の学力により、その生徒にとって適切なステップアップの仕方が異なる。それにフィットした形で負荷を多くしていかなければ、途中で潰れてしまうのだ。

 

実際に、最上位のクラスに合格したからそのまま授業をとっていたが、全く自分のレベルからかけ離れていて理解できず、しかし自分の中にあるプライドが邪魔をしたのだろう、そのまま受講して、中途半端に問題を解く力は身についているが、基礎が完全にすっぽ抜けたような生徒も多く見てきた。

 

もちろんこれは自習でも同じで、化学でいえば難関大を目指す受験生がこぞって使うのが「化学の新演習」である。しかし、これを特に最初の受験対策に用いるのはオススメできない。この問題集のウリは「改題によってひねった問題」であり、初見の問題に対応する力を養うためには威力を発揮する。しかし、定石をそこから学ぶのはかなり負担が大きいし、そもそもそういう問題としては適していない。ところが、「問題集何やってる?」と聞いたら、いきなりこれをやっているというものだから、慌ててそれを止めて重要問題集などもっと典型問題の解法を身につけるようアドバイスしたこともある。

 

どうしても人間って背伸びしたがる生き物なのだけど、生き急いで伸びすぎても足元が弱くなってしまう。先輩のアドバイスを参考にそうしたのかもしれないが、あなたと先輩とはいろんな面で違うのである。自分に合った勉強の仕方というのは、偶然他の誰かと同じであることもあるけれど、基本的にはオンリーワンなのだと思っている。

 

ということで、将来受験を迎える人たちには「勉強のウェイトを減らすリスク」「背伸びしすぎた勉強のリスク」をしっかりと考えていただきたい。

数学を担当していない理系の塾屋さんが数学重要問題集を解いてみて気づいたこと

色々と本業が忙しいのでだいぶん間が空いてしまった。書くネタはあるにはあるのだが、それを文章としてまとめる時間がなかなか取れない。とは言え、よくよく考えたらこれまでのブログも大半は大して構成は考えず思うがままに書いているから、もうバーっと書いてしまえばいいのかなと思ったり。続けることが大事だから、少し意識を変えてみようかな。

 

で、タイトルの件である。私は現在数学を担当教科として教えていない。いや、例えば大学生のチューターくらいの質問受けくらいならできなくはないのだけど(ただし数Ⅲはかなりご無沙汰なので覗く)、大学ではせいぜい一般教養止まりだし、それもちょっとした微積以外はほぼ記憶から抜けているので、素人同然と言っていい。

 

ところが、やはり大学受験生といえば要の科目は英語と数学である。もちろんこれには賛否両論あるだろうし、実際私は否定的である。理系であれば点を稼ぐのは理科だから、理科をいかに仕上げるかが大学に合格する上で重要だと思っている。でも、特に非受験学年にはなかなかそういうことを簡単に納得してもらえないし、理科の対策に十分な時間を割くためには、ある程度英数の基礎を完成させなくてはならないのは間違いない。

 

しかし、そうは言っても高3のこの時期になっても数学で困っている受験生は割といる。それで、数学に苦しんでいる受験生っていったいどこで困っているのか、そういう受験生の気持ちになることが今後進路指導をする上で必要なのでは、と思ったのだ。

 

問題を持ってこられたときにここはこう解く、といった話はできるかもしれない。しかし、理系でありながら数学について明確なアドバイスを自信を持ってできない自分がいる。これをなんとかしたいと思ったのだ。

 

そういうわけで、大学入試で数学の問題を解くときに、どういう点に注意すればいいのか、どういう感覚を身につければいいのかを再認識するために、数学の勉強を始めようと思ったのだ。そこで、どのような問題集をやっていけばいいのかを色々調べてみたのだが、手広く標準〜応用を身につけられるということ、そして割と最新の傾向も踏まえていることが決め手となり、定番の「数学重要問題集」を解いていこうと思ったのが先月のことである。

 

先に述べた通り、本業が繁忙期ということもあり、なかなか進められていないが、とりあえず整数までは進めることができた。ただ、そこでもある程度気づきがあった、それもおそらくこういった数学の勉強をする上で一番大きな気づきだと思われるので、それを備忘録として示しておく。

 

現状の気づきは以下の2点である。

・数学にセンスはさほど要らない

・数学の問題を解くための発想の一部は分野横断的である

 

1つ目について。数学はセンスが必要だと時々言われる。個人により解釈は様々だが、私がセンスと呼ぶものは「数学が得意である人にしか絶対気付けなさそうな着想」「数学の問題をたくさん経験していることがモノを言う着想」である。ただ、これはあまり必要ないな、と感じる。まだほぼ代数しかやっていないので、また変わるかもしれないけれど、これは多分揺るがないだろうと思う。

 

実際、変形した式などをみていると、論理的に考えて、おそらくこういう変形をすればうまくいくだろうというのが見えてきて(こういうところ、本当に問題がよくできていると感じる)、実際そうすると突破口が開ける、ということを問題を解いていて何度も経験した。やはり数学は論理的思考力がモノを言う教科だと思うのだ。

 

しかし、その「うまくいくだろう」というのが、例えば「この漸化式はこう変形する」と言った、分野や単元に依存した定石でないことが非常に多い。それどころか、そういう考えがいろんな問題で出てくると感じたのだ。これが2つ目の気づきである。

 

例えば、整数解を出す問題でax+by=xyみたいな形がでてきたら(x-○)(y-△)=□にするとうまくいくみたいなものである。整数解を求める問題だからこう変形する、というよりは、「こうなったら嬉しい(解きやすくなる)」というのがあって、そこに気づくといったようなものだ(この辺はうまく言語化できていないのがもどかしい、、、)。対称式を見たらこうしよう、みたいなものだろうか。うーん、分野や単元に依存しない、というともしかしたら語弊があるのかもしれない。こういうのって化学で言えば周期律みたいなものだろうから。

 

数学にセンスはいらないというのはもともとそうだと思っていたのだけれども、2つ目の気づきは割と想定外だった。問題を解くときは無意識のうちにそうしていたのかもしれないが、まだ言語化できていないとはいえども「こうなったら嬉しい」という感覚を掴むことが大事だということはもっと突き詰めればうまく学力向上の助言に寄与できるのではないか。

 

もっと解くと新たな気づきが得られるのかもしれないが、それはまた。

 

一番印象深かった推薦入試合格者

仕事柄、推薦入試を受ける生徒を担当することがしばしばある。前にも書いた通り、推薦入試ではまず志望理由書を仕上げることが最初の関門になるのだけど、これが案外できない。

 

志望理由とあわせて必要になるのが、いわゆる「自己PR」である。自分が高校時代に何に力を入れたか、ということをアピールするのである。学業面であれば、数学オリンピックに出た、SSHで研究をした、大学の何とかプログラムみたいなもので共同研究的なものをした、などであろうし、それ以外でいえば生徒会長を務めた、体育祭や文化祭の委員長を務めた、クラブの部長を務めた、などであろう。大抵は似たようなエピソードになるのだが、その中で自分の価値観を示すことのできるユニークな要素を盛り込むというのが、似たり寄ったりの志望理由書で差別化を狙うための常套手段であろう。

 

しかし、私が以前担当した生徒は、そういった経験がほぼ皆無であった。上記のような、学業面で優秀な成果を残したというわけでもなく、部活動もやっていなかったという。推薦入試を志す生徒では初めてのことだったので、私もどうしたものかと考えた。

 

こういうときはとにかく対話である。対話の中で、本人ですら気づかなかった新たな強みや価値観を掘り起こせることは珍しくない。しかしながら、その生徒が志望大学に行きたいという情熱は他の生徒よりも強いものを感じたが、肝心の自己PRのネタが全く特筆すべきものがない状況だった。

 

ここまで書くと何の取り柄もないような生徒に思われるかもしれないが、決してそうではない。先に述べた通り、志望動機はリサーチもしっかりしていて強いものを感じた。「なんとなく○○学部」なんていう生徒もたくさんいる中で、これは光り輝くものがあると思う。それに、対話をしていると、度胸もあるし気さくだし、何より、一生懸命自分の言葉で伝えるという気持ちが強いのだ。これも用意した原稿をただ思い出しながら声に出すのとは雲泥の差である。それゆえ、身振り手振りがオーバーすぎたり、敬語が欠落したりすることはしばしばあったのだが(笑)D・カーネギーも「話し方入門」で熱意の大切さを説いていたが、まさにそれを具現化したような生徒だった。

 

結局自己PRのネタとしてひねりだしたのが、授業での発表における内容だった。正直、どんな生徒でも経験として持っているであろうネタだった。確かにインパクトには欠けるが、なるべくオンリーワンになるような構成を一緒に考え尽くしたし、面接練習も1〜2時間を3セットはやった。やるべきことはやった。あとはそれを補って余りあるこの生徒の熱意に託そうと思った。

 

それで、もちろんこういう記事を書いているから御察しの通り、この生徒は見事合格を果たしたのだった。私は推薦入試は「一芸」に秀でた人間を選考するものだと思っていた。もちろんそういう傾向は今でもあるのだろうが、この事例はそういう私の考えを根底からひっくり返すものだったし、これ以降の指導にも多大な影響を与える経験となった。真面目であれば、熱意があれば、他人にはない経験がなくても、大学は評価してくれ、迎え入れてくれるのだ。もう「キミには秀でた実績がないから推薦は避けた方がいい」なんて言えないだろう。

 

推薦入試があればペーパーテストはいらない?

近年、「推薦入試」や「AO入試」、いや、この表現も古いだろう、「学校推薦型選抜」「総合型選抜」の重要性が高まっている。国立大学では定員の3割を目指すとされているくらいだから、この流れは当然といえば当然だろう。

 

このような入試では、従来の大学入試のように、ペーパーテストは課されないことが多い、もちろん、共通テストの結果が必要とされるように、基礎学力は重視されるのは変わらないのだけど、面接やら小論文やらグループディスカッションやらその他諸々の試験が課され、これまでのペーパーテストで必要とされるものとはまた違った力が問われる。

 

さらには志望理由書が課されることが大半だ。志望理由書も単に熱い想いを書けばいいという安易なものではなく、大抵の場合は「他に同じような学部があるのになぜうちの大学なのか」「大学に入学してからどういう勉強をしたいか」「大学を出てからどういった形で社会に貢献していきたいか」ということにも言及する、言い換えれば、将来の学習設計を立案した上で、それを文章の形でまとめなければならない。

 

そして、面接や志望理由書においては頻出のお題がある。その一つに「中学、高校で頑張ったこと」がある。就活でいうところの「ガクチカ(学生時代力を入れてきたこと)」だ。実際、私も何人か志望理由書を添削した経験があるけれど、本当にユニークな経験をしているなあと感心させられる。例えば、スーパーサイエンスハイスクールだと、課題研究のことを述べることが多いのだけど、研究環境に恵まれているなあとうらやましく思う。ある意味、このような学校の生徒としての特権であり、他の学校での実験授業ではなかなか真似できない。また、中学の頃から部長であったり生徒会長であったり、リーダーシップを発揮しているというエピソードもお決まりである。やはり日本の将来を牽引するからにはこのような力は大切だと思う。

 

となると、この大学に入りたい、となったときに、高校生活、中学生活、さらには小学校での生活において、将来を見据えて力を入れる必要がある。自分が大人になったときにあるべき姿を早期から描き、その縛りに従って生きていくような形だ。昔あったeポートフォリオなんかはその傾向をさらに強めるものだったのではないかと思う。アメリカでも、大学入試に向けて課外活動を積極的にやっていて、昔あった受験戦争とは違った形の戦争が起こっているらしい。

 

大学に入ると、主体的に学ぶ姿勢が本当に大切になってくる。だからこういった傾向は当然だろうし、個人的にも肯定的な立場である。単純なお勉強ができなくても、この大学に入る資質があって、本人も高い熱量を持っているのであれば、是非受け入れてほしいと思っている。

 

しかし、このような形の選抜を拡充「しすぎる」のは良くないと思う。個人的にはペーパーテストだけの入試というのは絶対に無くして欲しくない。当座の自分の食い扶持が無くなるというという理由もあるが(笑)もちろんそれだけではない。「ペーパーテストをパスするだけの学力がなくても、素質と動機がある高校生」を受け入れることも大切なのだが、逆に「なんの取り柄もないけれど、ペーパーテストをパスするだけの学力(=学んだ力)はある高校生」を受け入れることもまた大切なことではないかと思うのだ。

 

そもそも、「この大学に入りたい」と思ったのは皆さんいつごろだろうか。大抵の場合は高校に入ってからではないかと思うし、それこそ高校生活のふとしたきっかけで「この大学に行きたい!」となる高校生も少なからずいると思う。私の場合、高校の頃は数学が大好きで、もともと理学部で数学を専攻したいと思っていた。しかし、高2の修学旅行で北海道に行ったのをきっかけに、自然っていいな、でもあまりこれまで生物と戯れる経験を比較的してこなかったので、大学でそういった勉強をしてみよう!と、志望を農学部に変更した。人生の分岐なんて些細なことで起こるものだ。

 

また、課外活動含め、積極的にいろんなことに打ち込んできた人は確かにそうでない人よりも評価は高いかもしれない。けれども、今は消極的であるけれど、自分を変えるきっかけや自分の打ち込みたいことを、大学に見つけたという高校生はたくさんいると思うのだ。そういう人たちにも手を差し伸べるような大学入試であるべきではないかと思う。この大学に行きたいと思ったけれど、その大学に合格するに値する人生経験を積んでこなかったから詰んだ、というのはあまりにも酷である。

 

リスタート、リトライをしたい場面は人生においていくらでもあると思う。そういうことに対して優しい入試であってほしいと思う。