推薦入試があればペーパーテストはいらない?
近年、「推薦入試」や「AO入試」、いや、この表現も古いだろう、「学校推薦型選抜」「総合型選抜」の重要性が高まっている。国立大学では定員の3割を目指すとされているくらいだから、この流れは当然といえば当然だろう。
このような入試では、従来の大学入試のように、ペーパーテストは課されないことが多い、もちろん、共通テストの結果が必要とされるように、基礎学力は重視されるのは変わらないのだけど、面接やら小論文やらグループディスカッションやらその他諸々の試験が課され、これまでのペーパーテストで必要とされるものとはまた違った力が問われる。
さらには志望理由書が課されることが大半だ。志望理由書も単に熱い想いを書けばいいという安易なものではなく、大抵の場合は「他に同じような学部があるのになぜうちの大学なのか」「大学に入学してからどういう勉強をしたいか」「大学を出てからどういった形で社会に貢献していきたいか」ということにも言及する、言い換えれば、将来の学習設計を立案した上で、それを文章の形でまとめなければならない。
そして、面接や志望理由書においては頻出のお題がある。その一つに「中学、高校で頑張ったこと」がある。就活でいうところの「ガクチカ(学生時代力を入れてきたこと)」だ。実際、私も何人か志望理由書を添削した経験があるけれど、本当にユニークな経験をしているなあと感心させられる。例えば、スーパーサイエンスハイスクールだと、課題研究のことを述べることが多いのだけど、研究環境に恵まれているなあとうらやましく思う。ある意味、このような学校の生徒としての特権であり、他の学校での実験授業ではなかなか真似できない。また、中学の頃から部長であったり生徒会長であったり、リーダーシップを発揮しているというエピソードもお決まりである。やはり日本の将来を牽引するからにはこのような力は大切だと思う。
となると、この大学に入りたい、となったときに、高校生活、中学生活、さらには小学校での生活において、将来を見据えて力を入れる必要がある。自分が大人になったときにあるべき姿を早期から描き、その縛りに従って生きていくような形だ。昔あったeポートフォリオなんかはその傾向をさらに強めるものだったのではないかと思う。アメリカでも、大学入試に向けて課外活動を積極的にやっていて、昔あった受験戦争とは違った形の戦争が起こっているらしい。
大学に入ると、主体的に学ぶ姿勢が本当に大切になってくる。だからこういった傾向は当然だろうし、個人的にも肯定的な立場である。単純なお勉強ができなくても、この大学に入る資質があって、本人も高い熱量を持っているのであれば、是非受け入れてほしいと思っている。
しかし、このような形の選抜を拡充「しすぎる」のは良くないと思う。個人的にはペーパーテストだけの入試というのは絶対に無くして欲しくない。当座の自分の食い扶持が無くなるというという理由もあるが(笑)もちろんそれだけではない。「ペーパーテストをパスするだけの学力がなくても、素質と動機がある高校生」を受け入れることも大切なのだが、逆に「なんの取り柄もないけれど、ペーパーテストをパスするだけの学力(=学んだ力)はある高校生」を受け入れることもまた大切なことではないかと思うのだ。
そもそも、「この大学に入りたい」と思ったのは皆さんいつごろだろうか。大抵の場合は高校に入ってからではないかと思うし、それこそ高校生活のふとしたきっかけで「この大学に行きたい!」となる高校生も少なからずいると思う。私の場合、高校の頃は数学が大好きで、もともと理学部で数学を専攻したいと思っていた。しかし、高2の修学旅行で北海道に行ったのをきっかけに、自然っていいな、でもあまりこれまで生物と戯れる経験を比較的してこなかったので、大学でそういった勉強をしてみよう!と、志望を農学部に変更した。人生の分岐なんて些細なことで起こるものだ。
また、課外活動含め、積極的にいろんなことに打ち込んできた人は確かにそうでない人よりも評価は高いかもしれない。けれども、今は消極的であるけれど、自分を変えるきっかけや自分の打ち込みたいことを、大学に見つけたという高校生はたくさんいると思うのだ。そういう人たちにも手を差し伸べるような大学入試であるべきではないかと思う。この大学に行きたいと思ったけれど、その大学に合格するに値する人生経験を積んでこなかったから詰んだ、というのはあまりにも酷である。
リスタート、リトライをしたい場面は人生においていくらでもあると思う。そういうことに対して優しい入試であってほしいと思う。