ツキアカリテラス

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教えられる人から選り好みをされる教師

前回は生徒側の立場で、教える人を選り好みすることの危うさについて述べたが、一方で、教師/講師も選り好みされることについては危うさがあるということを今回は述べたいと思う。

 

人間、誰しも誰かに認められたい気持ちはある。いわゆる承認欲求である。だから、自分を慕う生徒がいればどうしても可愛げのある存在に見えてしまうものだと思う。と同時に、そういう生徒たちの存在は、自分の行いが間違っていないことを確信させてくれる。

 

しかし、それにあぐらをかきすぎるというか、その危うさに気づかずに、そういったフォロワーを集めることに拘泥することについては慎重でありたいものだと思う。承認欲求の海に溺れてしまうと、行き着く先は承認してくれない人間の排除だ。前回も、生徒にとって多様な考えを受け入れられないということを書いたが、これは教える側にとっても同じである。周りにちやほやされ、それを当然のものと思ってしまうと、やはり多様な考えを受け入れられなくなるのだ。これは生徒がそのような呪いにかかってしまうよりも深刻な問題だと思う。人生経験が浅く、どうしても視野が狭くなりがちな生徒の手を取って、多様な価値観を見せるのは大人の大事な役割だと思うからだ。同じような人間を再生産してしまうことになる。

 

特に最近は、物事を「見られるべきように見る」のではなく、「見たいように見る」人が世の中には想像以上に多いと感じることがしばしばある。偉そうに書いているが、私だって、もちろん気をつけているが、そういう見方をしていることは否定できない。もしかしたら、人間のもつ特性として一般的なものなのかもしれない。だからこそ、自分が行きすぎた承認欲求に呑み込まれ、ダークサイドに堕ちていないかは定期的に自問する必要があると思う。

教える人で選り好みをする勉強法

「誰に教えてもらうか」というのは、特に塾や予備校であればかなり重要な問題である。「あの先生の授業がすごく良いよ」「あの先生はカリスマ性がある」「あの先生はカッコイイ」など、理由は様々あるが、授業内容というよりは「教える人」で授業を選ぶ人は多い。たしかに世の中は「何を言ったか」より「誰が言ったか」が重要視されるところがあるので、「教える人」を選り好みするのはそこまでおかしなことではないと思う。私だって、それでもし学力が向上したり、勉強に対して前向きになったりすればそれでいいと思う。

 

しかし残念ながら、そのように教える人を選り好みする生徒は伸びない生徒が多い気がする。もちろん全員そうではないが、教える人が誰であろうが、あまりこだわりをもたない生徒の方が良い結果を出しているケースが多い。

 

教える人に依拠しすぎる学び方は私は危険だと思っている。理由は色々あるのだが、一番の理由は、推している人の意見しか受け入れない、つまり多様な意見や思想を受け入れられない、ということにあると思う。

 

自分にとって何が最適であるかというのは、自分自身ではなかなか判断できないものである。もし判断できたとしても、それが見当違いであることが多い。それに対して、第三者の意見を聞いて自分だけでは得られなかった発想や考え方に気づき、それをもとに事が良い方向に進むことは往々にしてある。今や受験勉強に関する情報は大量に転がっている。それにも関わらず、第三者による指導を求める人が多いのは、やはり独断で進めていって、どこかで頭打ちになっているケースが多いのではと思う。

 

だから、この先生にしかついていかない、というのは自分の可能性の幅を大きく狭めてしまう行為であると思う。仮にその思想が合わなかったとしたら、勉強が回り道になるどころか、学力を下げてしまうことだってある。私の授業が合わなくて他の先生の授業を受けたらそこで大化けして良い成果を残した生徒もいるし、もちろんその逆もある。

 

ベストなのは、多様な意見を聞き、その中からチョイスすることである。多様な意見に触れるきっかけをちゃんと持っておくこと、自分からそれを潰さないことが大切だと思う。私も、教える人を選り好みせずに講座を受けるかどうかは考えて欲しいとよく言う。

優しい嘘

高校の化学は(化学に限らないが)特に有機化学無機化学は本格的に理論背景から説明しようと思うと、大学初等レベルどころかそれ以上の内容が必要となる。だからどこかで、言葉を悪くして言えばごまかさないといけないときがある。

 

そのごまかしが、理論と大きくずれていなければ問題ない。しかし、理論からずれているどころか、理論に反する場合はどうしたらいいのか。

 

苦手な生徒を相手に授業をする場合、カッチリしたことを教えても消化不良になる。そこで、具体例を盛り込むだの、噛み砕いて説明するだの、言葉遣いを工夫するだの、色々やるわけである。しかしその過程で、どうしても上記にある「理論に反するごまかし」をせざるを得ないときがある。私はこれを「優しい嘘」と呼んでいる。

 

できれば嘘はつきたくないのが本音である。その場はしのげたとしても、将来専門的に学ぶときに悪影響を及ぼす可能性はある。しかし、自己を正当化するような意見になり恐縮だが、私のミッションは「入試をパスするだけの学力向上を提供すること」、極論すれば「目の前の入試問題を解けること」である。

 

だから、本当のことを教えることと、内容を頭に叩き込ませることの両方を天秤にかけたときに、後者をとってしまうのは、致し方ないかなと思う。「これは少しごまかしが入ってて、本当の話は大学に入ってから学ぶからそのときに勉強してね」とことわるのが落とし所だろう。

 

もちろん同業者の中には厳密性を重んじて講義をされる方もいる。そういう方は本当に尊敬する。私もそれを目指している時期もあった。しかし、やはり本格的に化学を専攻していた人には到底敵わない(自分もそこそこ長くアカデミアにいたので、その知の巨人っぷりはよく分かる)。だったら、少なくとも私は本来の目的に邁進するのが良いのではと思うのだ。

日記にネガティブなことを書くことは良いのか

本当は違うことを書くつもりだったけど、たまたまネタが降ってきたので一気呵成に書く。

 

日記はオンラインではなかなか書けないような内容を書くことができる場所である。よくSNSではネガティブなことやら批判的なことやらを書かない方が良いと言われるが、日記ではもちろんその限りではない。むしろそれを書くことによって、ネガティブな気持ちを吐き出し、気持ちを浄化させることができるかもしれない。

 

実際、私も日記を多少サボりつつも書いているが、やはりネガティブなことだとかストレスフルなことだとかは生きていりゃ何かとあるもので、それを日記に書くこともたまにある。しかし、オンラインに書けないからといって、こういったプライベートな空間にひたすらネガティブなことを書き綴るのは、別の意味でよくないなとふと思った。

 

先に書いたように、私自身もネガティブなことを書かないわけではない。しかし、だいたい書くときには次への教訓となることをブレスト的に書き綴る場合が多い。やりたくないけれど、将来のために仕方なしに書いているような感じだ。実際、書いてスッキリするかと言うと案外そうでもないし、むしろ後悔の念を感じるときもある。

 

そして、自分にとって日記というのは自分にしか書けない物語だと思っている。日記を見返すということを一度はやったことがあるのではないだろうか。それで昔を懐かしみながら振り返っているときに、トゲトゲした内容ばかりが並んでいては気持ちが滅入ってしまうだろう。幸せになるために過去の日記をめくっているのにも関わらず、だ。

 

やはり振り返るからには(ある意味自分が日記を頑張って書いているのはこれが一番の目的である)後から読んで笑顔になれるようなことを書きたいものである。そう考えると、ネガティブなことを吐き出すのはこういう場所でも必ずしも良くないのでは?と思った。だったらどこにはけ口を求めればいいんだよ!という一人ツッコミもあるのだが。

老害になる自分とのせめぎ合い

ちょっと前にこれを見てなるほどと思った。

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私も、もういい年である(少なくとも動画にある35は超えている)。見た目は実年齢よりも若いと専らの評判(?)だが、それでも昔に比べると随分と説教臭くなってきている気がする。

 

昔は授業というのは正しいことを正しく教えれば良い、そしてそれを生徒がしっかりと吸収してくれれば良いと思っていた。しかし、それだけではすべての生徒の底上げをすることは困難であることに行き着く。結果、モチベーションだの、学習法だの、メンタルコントロールだのの話を織り込むことになってくるし、授業スタイルもどちらかといえばティーチングというよりはトレーニングやコーチングの方向性に変わっていく。授業内で訓話をすることも昔はほとんどなかったのだが、今は割とある気がする。

 

根底にあるのは生徒の学力向上であり、これは至上命題であり、我々が確実に提供しなければならないサービスの1つであると思う。そのためにあれこれと手を尽くすことは方向性としては間違っていないと思う。キャリアを経て様々なインプットをした賜物だとも言えるだろう。

 

しかしながら、生徒との年齢差は昔よりも開いている。年の差が近ければ、トレーナーであろうがコーチであろうが、お兄ちゃんと一緒に頑張る、みたいな感覚なのだろうと思うが、いつまでもそうはいかない。大して関心のないおっさんにそのようなことをされては、かえって嫌悪感を与えるだけではないか。昔は若さは武器というのは半信半疑に思っていたが、それなりに年を食ってようやくそれが真実だと気づく。

 

そしてさらに怖いのが、当の生徒はおそらくそういうことは一切教えてくれないから、老害になっているかどうかは、自分自身で自覚して気づくしかないのである。「先生それって老害ですよ」なんて、冗談ならまだしも、本音で面と向かって言う生徒などいないだろう。何も語らず、本人も老害と気づかぬままにフェードアウトされるのがオチだ。

 

ではトレーナーやコーチとしての役割を捨てるべきか。私の答えは否である。やはり、どこかで説教したり檄を飛ばさなきゃいけないときはある。ヒッキー北風みたいに生理的に無理!とそっぽを向かれやしないかという恐怖を抱えながら。私自身は単に嫌われるのは別に構わないが(そもそも好かれるということに興味がない)、信頼関係を失うのは怖い。これからはそういうリスクと付き合いながら教壇に立たなければならない。

 

いつかは多かれ少なかれ老害になってしまうのかもしれないが、老害になっていないか、日々の行動から反省する習慣をもっておかないといけないな、と思う。それだけでもだいぶ違うだろうから。

オノマトペを使いこなす生徒はデキる

今日の話はこの続きだったりする。

tsuki-akr.hatenablog.jp

 

ここで

「正しい表現でなくてもいいから、自分なりの表現で答えてみて」

と書いたのだけど、これは実際には「擬音語とか擬態語とか使ってもいいから」と付け加えていることが大半で、生徒が答えに窮しているときにはこういう声かけをすることが多い。半分冗談のように聞こえるが、これはいたって大真面目な発言なのである。

 

化学というのは割と理科の中でも好き嫌いの激しい科目である(と思っている)。おそらくは中途半端に暗記量が多く、かといって暗記だけでは太刀打ちできないような場面も往往にしてあるからだろう。これらを両立するためには化学現象をイメージ化して理解することが大切だと思っている。これができれば暗記もしやすくなるし、思考もしやすくなるからだ。実際、化学は原子やイオンといった、目に見えないものを扱う。だからこそ、可視化した形で理解することが大切だと思う。

 

ところで、水素結合は分子間に働く引力の中でも比較的強い力なのだが、それを「ぎゅーんと引き合う」と言ったり、気体分子のふるまいを「びゅんびゅん移動する」と言ったり、擬音語やら擬態語やらをやたらと多用して話すケースは結構ある。私もそういう生徒を何人か見たことがある。

 

で、驚くべきはそのイメージが非常に的を射ているのだ。もちろん表現自体は改善の余地しかないと思う。しかしその生徒は化学的にものを見る目をたしかに持っている。実際、そういう擬音語や擬態語を多用する生徒から鋭い質問を受けたことが何度かある。そして、そういう生徒は化学で優秀な成績を残していることが多い。

  

そういうわけで肌感覚ではあるが、私は「擬音語と擬態語でもいいからしっかりと化学現象を記述できる人は実力のある人」だとみなしている。これから化学を勉強する皆さんは、まずは自分なりの表現でいい、拙い表現だと思っていてもいい、擬音語でも擬態語でもいいから、ありのままに化学現象を記述できることを目指して欲しいと思う。適切な言葉はそこからオンすれば良い。

授業は間違えるところ

授業の中で、生徒を当てることがある。しかし、当てられた生徒は何とかして正しい答えを出そうと必死になるのか、そのまま押し黙ることもしばしばある。

 

私が生徒を当てる目的は大きく2つあって、一つは理解度をみるため、もう一つは思考を促すためである。まあ生徒を指名するのであれば典型的な目的であろうと思う。ところが、それで生徒が答えられないときに、それを残念に思うということはまずなく、前者の場合、理解ができていない=答えられないことが分かったとしたら、もう一度その内容を復習するように授業の構成を組み替えようかなあと思うくらいで、後者の場合であればそもそも正解を出してもらいたいという意図はない。

 

しかし、生徒にとってはそうではないのである。おそらく、これまでに当てられて間違えたときに、恥ずかしい思いをしたなどの経験がそうさせるのではないかと思う。

 

生徒を当てることに関しては、大昔に印象深かった経験がある。その生徒は理解度に関してもこれから伸ばしていかなければならない生徒であったので、基本的な問いを当てた。しかし、結局答えられることはできず、だからといって、先述の通り、自分自身は構わないと思っていた。

 

ところが、その後の生徒の反応に衝撃を受けた。こちらを見て震えているのである。もちろん私がこれまで答えを間違えて咎めたことなど一度もない。だから、当てられても間違えてもよい空間であることは雰囲気で感じられるはずだった。それにも関わらず、その生徒はまるで怯えた子犬のようにこちらを見て震えていたのである。素知らぬ顔でそのまま授業を続けたが、あのときのことは忘れない。

 

それ以来は、生徒が答えやすい環境、間違えやすい環境を作ることを強く意識している。「授業では間違えてもいいんだよ」「正しい表現でなくてもいいから、自分なりの表現で答えてみて」ということを公言している。

 

授業は間違えるところだと思っている。でなければ授業に出る意味はなく、ひたすら自学自習を進めればよい。その環境づくりを教師と生徒でともに行うことが大切だと思う。