ツキアカリテラス

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映像授業における「間」

このご時世で、映像授業もいくつか担当させていただいた。編集はセルフとなるのだが、昔は授業における「間」を映像授業にも反映させていた。つまり無音で数秒というところがいくつかあるのだ。

 

これは昨今の映像授業というか、映像全体において、視聴の効率化を目的にとことんこの「間」を削る傾向にあり、それに反抗する姿勢をとっていたのかもしれない。根が天邪鬼なものだから(笑)しかし、授業をやっている人間であれば誰しも考えるところだが、「間」は授業の展開においてすごく大事である。音楽において休符や歌メロのない部分が大事な役割を果たすのと同様にだ。だから映像授業においても、そのような「間」は取り入れよう、とは思っていたのだ。

 

ところが、最近収録した動画に関しては、この「間」を徹底的にカットしている。きっかけはそれとは全く関係なく、動画の時間が長すぎたので指示された時間内に収めるために色々とカットせざるを得なかったためであるが、実際チェックも兼ねて聴いていると、こっちの方がいいな、前のものは冗長だったな、と思うようになった。長々とした式を書いているのをじっと見ているよりは、パッと出された方がいい。特に家で勉強しているときは一時停止など自由にできるわけだし、なおさらだ。

 

改めて考えてみると、受験生(だけでなく学生一般)は我々が想定している以上に負担が大きく、忙しい生活を送っている。部活もあるし、学校の課題もあるし、だ。もちろんそれをうまくやりくりして時間を管理していくことは入試を見据えるとできなければならないことだし、我々の側が至れり尽くせりすることは彼らを甘やかすことにもなりかねない。

 

それでも、そういう配慮をせずに冗長な映像授業を見せられたらたまったもんじゃないだろう。効率的に内容を吸収できるからこそ、巷の映像授業が支持されているといってもいいと思う。場の授業の論理をそのまま映像授業の論理に持ち込むことはできないし、その逆もまたできないのだ。そんなことを今更ながら理解するのである。

 

ただそうすると、今度は聴き流して内容が頭に残らない、といったデメリットが浮上してくる。これをどうしていくのかは少し考えなければなと思う。