ツキアカリテラス

tsuki-akr terrace

一体感は無理にでも植え付けるべきか

もう随分前だったか、ちょっとしたセミナーに参加する機会があった。こういうセミナーに参加したことのある人は分かると思うのだが、最初にアイスブレイクで隣近所の人と自己紹介をし合う、だれかが意見を言った後に拍手をしたり、スローガンを全員で唱えたりするなどで場の一体感を持たせる、といった要素が必ずといっていいほど含まれる。それで、これは授業の場でも使えると思い、ほんの一時期導入したことがある。ほんの一時期、ということは今はやっていない。おそらくこれから先も、よっぽど必要に迫られない限りはやることはない。

 

実際、拍手でたしかに一体感を持たせることはできた。しかし、授業後に1人の生徒が「ああいうのはちょっと苦手で・・・」とレスポンスをくれたのだ。それはまずいなということ、そしてその生徒は意見をしてくれたのだが、黙ったままその苦痛な時間を過ごしてしまう生徒も多いだろうということも考えて、それ以来は全くやっていない。そもそも私自身、ああいうのは非常に嫌がるタイプである。特に塾の授業というのはサービスの一環だから、自分が嫌がることも場合によってやらねばならないものだと思っているので実践に移したとはいえ、そのデメリットをよく分かっていながら、その生徒には悪いことをしてしまった。

 

一体感を持たせるということは、それに馴染めない一部の人間を排除することと表裏一体である。アイスブレイクやら拍手やらで信頼関係を築くことができるのは否定しない。しかし、信頼関係は本来そうやって築かれるものではないと思うのだ。人との関わりの中で、ときには衝突し合って、ゆっくりでもいい、自然と醸成されていくものだと思う。促成栽培的に意図的に築かれた信頼関係は崩壊するのも早いのではないだろうか。おそらく、通年の授業が終わればそういった繋がりは瞬く間に希薄になるのではないだろうか。セミナーは初対面の人ばかりだし短期である場合が多いから、なるべく早く信頼関係を構築することが必要になるが、教室では必ずしも当てはまらないと思う。塾などであっても同様であろう。

 

その分、信頼関係を築きやすい環境を整備するのは先生の任務だろう。無理に急がず、しかしハードルを低くする仕掛けを継続して用意する必要があると思う。