ツキアカリテラス

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学力が伸びる機会を失わせる2つの方法

何かの縁で私の授業を受けることになった生徒。もちろん、そのまま受験まで面倒を見てあげたいところなのだが、色々な理由で授業を切られてしまうことがある。そして、それは私に限ったことではなく、他の講師でもそうだろうと思う。

 

色々な理由というのは、恥ずかしいことに学力が向上したと感じさせてあげられなかった、そもそも私の授業(あるいは私のパーソナリティ)が生理的に受け付けなかった、といった講師本人の要因もあるし、他教科の成績が低下してそちらの向上に注力したり、これは私教育ならではの理由だと思うが、家が遠方で通うのがしんどい、経済的に厳しい、といった生徒側の要因もある。

 

ただ、いずれにしても言えるのが、一度授業を切った以上はそれを埋め合わせなければ確実に学力は低下するということだ。これは私の授業がそれだけ成績を上げられるという自慢でもなく、他の授業においても同じことである。やはり何事もやらなければ力が衰えるものである。

 

そうして、例えば受験学年になってまた授業に復帰したときに、昔あれだけできていたのになんで?という事象も数多く見てきた。ここから盛り返したとしても、昔のようなできる状態にすら到達できないことが多い。ずっと授業を受けていたらな、、と思ったことが何度もある。単に私の指導力が足りないせいかもしれないので傲慢な意見なのかもしれないが。

 

では、とにかく勉強しよう、できるだけ問題を解いて質的にも量的にも上げていこう、ということが正しいのかといえば、それもまた違うと思うのである。部活の忙しさや高目の学力により、その生徒にとって適切なステップアップの仕方が異なる。それにフィットした形で負荷を多くしていかなければ、途中で潰れてしまうのだ。

 

実際に、最上位のクラスに合格したからそのまま授業をとっていたが、全く自分のレベルからかけ離れていて理解できず、しかし自分の中にあるプライドが邪魔をしたのだろう、そのまま受講して、中途半端に問題を解く力は身についているが、基礎が完全にすっぽ抜けたような生徒も多く見てきた。

 

もちろんこれは自習でも同じで、化学でいえば難関大を目指す受験生がこぞって使うのが「化学の新演習」である。しかし、これを特に最初の受験対策に用いるのはオススメできない。この問題集のウリは「改題によってひねった問題」であり、初見の問題に対応する力を養うためには威力を発揮する。しかし、定石をそこから学ぶのはかなり負担が大きいし、そもそもそういう問題としては適していない。ところが、「問題集何やってる?」と聞いたら、いきなりこれをやっているというものだから、慌ててそれを止めて重要問題集などもっと典型問題の解法を身につけるようアドバイスしたこともある。

 

どうしても人間って背伸びしたがる生き物なのだけど、生き急いで伸びすぎても足元が弱くなってしまう。先輩のアドバイスを参考にそうしたのかもしれないが、あなたと先輩とはいろんな面で違うのである。自分に合った勉強の仕方というのは、偶然他の誰かと同じであることもあるけれど、基本的にはオンリーワンなのだと思っている。

 

ということで、将来受験を迎える人たちには「勉強のウェイトを減らすリスク」「背伸びしすぎた勉強のリスク」をしっかりと考えていただきたい。

数学を担当していない理系の塾屋さんが数学重要問題集を解いてみて気づいたこと

色々と本業が忙しいのでだいぶん間が空いてしまった。書くネタはあるにはあるのだが、それを文章としてまとめる時間がなかなか取れない。とは言え、よくよく考えたらこれまでのブログも大半は大して構成は考えず思うがままに書いているから、もうバーっと書いてしまえばいいのかなと思ったり。続けることが大事だから、少し意識を変えてみようかな。

 

で、タイトルの件である。私は現在数学を担当教科として教えていない。いや、例えば大学生のチューターくらいの質問受けくらいならできなくはないのだけど(ただし数Ⅲはかなりご無沙汰なので覗く)、大学ではせいぜい一般教養止まりだし、それもちょっとした微積以外はほぼ記憶から抜けているので、素人同然と言っていい。

 

ところが、やはり大学受験生といえば要の科目は英語と数学である。もちろんこれには賛否両論あるだろうし、実際私は否定的である。理系であれば点を稼ぐのは理科だから、理科をいかに仕上げるかが大学に合格する上で重要だと思っている。でも、特に非受験学年にはなかなかそういうことを簡単に納得してもらえないし、理科の対策に十分な時間を割くためには、ある程度英数の基礎を完成させなくてはならないのは間違いない。

 

しかし、そうは言っても高3のこの時期になっても数学で困っている受験生は割といる。それで、数学に苦しんでいる受験生っていったいどこで困っているのか、そういう受験生の気持ちになることが今後進路指導をする上で必要なのでは、と思ったのだ。

 

問題を持ってこられたときにここはこう解く、といった話はできるかもしれない。しかし、理系でありながら数学について明確なアドバイスを自信を持ってできない自分がいる。これをなんとかしたいと思ったのだ。

 

そういうわけで、大学入試で数学の問題を解くときに、どういう点に注意すればいいのか、どういう感覚を身につければいいのかを再認識するために、数学の勉強を始めようと思ったのだ。そこで、どのような問題集をやっていけばいいのかを色々調べてみたのだが、手広く標準〜応用を身につけられるということ、そして割と最新の傾向も踏まえていることが決め手となり、定番の「数学重要問題集」を解いていこうと思ったのが先月のことである。

 

先に述べた通り、本業が繁忙期ということもあり、なかなか進められていないが、とりあえず整数までは進めることができた。ただ、そこでもある程度気づきがあった、それもおそらくこういった数学の勉強をする上で一番大きな気づきだと思われるので、それを備忘録として示しておく。

 

現状の気づきは以下の2点である。

・数学にセンスはさほど要らない

・数学の問題を解くための発想の一部は分野横断的である

 

1つ目について。数学はセンスが必要だと時々言われる。個人により解釈は様々だが、私がセンスと呼ぶものは「数学が得意である人にしか絶対気付けなさそうな着想」「数学の問題をたくさん経験していることがモノを言う着想」である。ただ、これはあまり必要ないな、と感じる。まだほぼ代数しかやっていないので、また変わるかもしれないけれど、これは多分揺るがないだろうと思う。

 

実際、変形した式などをみていると、論理的に考えて、おそらくこういう変形をすればうまくいくだろうというのが見えてきて(こういうところ、本当に問題がよくできていると感じる)、実際そうすると突破口が開ける、ということを問題を解いていて何度も経験した。やはり数学は論理的思考力がモノを言う教科だと思うのだ。

 

しかし、その「うまくいくだろう」というのが、例えば「この漸化式はこう変形する」と言った、分野や単元に依存した定石でないことが非常に多い。それどころか、そういう考えがいろんな問題で出てくると感じたのだ。これが2つ目の気づきである。

 

例えば、整数解を出す問題でax+by=xyみたいな形がでてきたら(x-○)(y-△)=□にするとうまくいくみたいなものである。整数解を求める問題だからこう変形する、というよりは、「こうなったら嬉しい(解きやすくなる)」というのがあって、そこに気づくといったようなものだ(この辺はうまく言語化できていないのがもどかしい、、、)。対称式を見たらこうしよう、みたいなものだろうか。うーん、分野や単元に依存しない、というともしかしたら語弊があるのかもしれない。こういうのって化学で言えば周期律みたいなものだろうから。

 

数学にセンスはいらないというのはもともとそうだと思っていたのだけれども、2つ目の気づきは割と想定外だった。問題を解くときは無意識のうちにそうしていたのかもしれないが、まだ言語化できていないとはいえども「こうなったら嬉しい」という感覚を掴むことが大事だということはもっと突き詰めればうまく学力向上の助言に寄与できるのではないか。

 

もっと解くと新たな気づきが得られるのかもしれないが、それはまた。

 

一番印象深かった推薦入試合格者

仕事柄、推薦入試を受ける生徒を担当することがしばしばある。前にも書いた通り、推薦入試ではまず志望理由書を仕上げることが最初の関門になるのだけど、これが案外できない。

 

志望理由とあわせて必要になるのが、いわゆる「自己PR」である。自分が高校時代に何に力を入れたか、ということをアピールするのである。学業面であれば、数学オリンピックに出た、SSHで研究をした、大学の何とかプログラムみたいなもので共同研究的なものをした、などであろうし、それ以外でいえば生徒会長を務めた、体育祭や文化祭の委員長を務めた、クラブの部長を務めた、などであろう。大抵は似たようなエピソードになるのだが、その中で自分の価値観を示すことのできるユニークな要素を盛り込むというのが、似たり寄ったりの志望理由書で差別化を狙うための常套手段であろう。

 

しかし、私が以前担当した生徒は、そういった経験がほぼ皆無であった。上記のような、学業面で優秀な成果を残したというわけでもなく、部活動もやっていなかったという。推薦入試を志す生徒では初めてのことだったので、私もどうしたものかと考えた。

 

こういうときはとにかく対話である。対話の中で、本人ですら気づかなかった新たな強みや価値観を掘り起こせることは珍しくない。しかしながら、その生徒が志望大学に行きたいという情熱は他の生徒よりも強いものを感じたが、肝心の自己PRのネタが全く特筆すべきものがない状況だった。

 

ここまで書くと何の取り柄もないような生徒に思われるかもしれないが、決してそうではない。先に述べた通り、志望動機はリサーチもしっかりしていて強いものを感じた。「なんとなく○○学部」なんていう生徒もたくさんいる中で、これは光り輝くものがあると思う。それに、対話をしていると、度胸もあるし気さくだし、何より、一生懸命自分の言葉で伝えるという気持ちが強いのだ。これも用意した原稿をただ思い出しながら声に出すのとは雲泥の差である。それゆえ、身振り手振りがオーバーすぎたり、敬語が欠落したりすることはしばしばあったのだが(笑)D・カーネギーも「話し方入門」で熱意の大切さを説いていたが、まさにそれを具現化したような生徒だった。

 

結局自己PRのネタとしてひねりだしたのが、授業での発表における内容だった。正直、どんな生徒でも経験として持っているであろうネタだった。確かにインパクトには欠けるが、なるべくオンリーワンになるような構成を一緒に考え尽くしたし、面接練習も1〜2時間を3セットはやった。やるべきことはやった。あとはそれを補って余りあるこの生徒の熱意に託そうと思った。

 

それで、もちろんこういう記事を書いているから御察しの通り、この生徒は見事合格を果たしたのだった。私は推薦入試は「一芸」に秀でた人間を選考するものだと思っていた。もちろんそういう傾向は今でもあるのだろうが、この事例はそういう私の考えを根底からひっくり返すものだったし、これ以降の指導にも多大な影響を与える経験となった。真面目であれば、熱意があれば、他人にはない経験がなくても、大学は評価してくれ、迎え入れてくれるのだ。もう「キミには秀でた実績がないから推薦は避けた方がいい」なんて言えないだろう。

 

推薦入試があればペーパーテストはいらない?

近年、「推薦入試」や「AO入試」、いや、この表現も古いだろう、「学校推薦型選抜」「総合型選抜」の重要性が高まっている。国立大学では定員の3割を目指すとされているくらいだから、この流れは当然といえば当然だろう。

 

このような入試では、従来の大学入試のように、ペーパーテストは課されないことが多い、もちろん、共通テストの結果が必要とされるように、基礎学力は重視されるのは変わらないのだけど、面接やら小論文やらグループディスカッションやらその他諸々の試験が課され、これまでのペーパーテストで必要とされるものとはまた違った力が問われる。

 

さらには志望理由書が課されることが大半だ。志望理由書も単に熱い想いを書けばいいという安易なものではなく、大抵の場合は「他に同じような学部があるのになぜうちの大学なのか」「大学に入学してからどういう勉強をしたいか」「大学を出てからどういった形で社会に貢献していきたいか」ということにも言及する、言い換えれば、将来の学習設計を立案した上で、それを文章の形でまとめなければならない。

 

そして、面接や志望理由書においては頻出のお題がある。その一つに「中学、高校で頑張ったこと」がある。就活でいうところの「ガクチカ(学生時代力を入れてきたこと)」だ。実際、私も何人か志望理由書を添削した経験があるけれど、本当にユニークな経験をしているなあと感心させられる。例えば、スーパーサイエンスハイスクールだと、課題研究のことを述べることが多いのだけど、研究環境に恵まれているなあとうらやましく思う。ある意味、このような学校の生徒としての特権であり、他の学校での実験授業ではなかなか真似できない。また、中学の頃から部長であったり生徒会長であったり、リーダーシップを発揮しているというエピソードもお決まりである。やはり日本の将来を牽引するからにはこのような力は大切だと思う。

 

となると、この大学に入りたい、となったときに、高校生活、中学生活、さらには小学校での生活において、将来を見据えて力を入れる必要がある。自分が大人になったときにあるべき姿を早期から描き、その縛りに従って生きていくような形だ。昔あったeポートフォリオなんかはその傾向をさらに強めるものだったのではないかと思う。アメリカでも、大学入試に向けて課外活動を積極的にやっていて、昔あった受験戦争とは違った形の戦争が起こっているらしい。

 

大学に入ると、主体的に学ぶ姿勢が本当に大切になってくる。だからこういった傾向は当然だろうし、個人的にも肯定的な立場である。単純なお勉強ができなくても、この大学に入る資質があって、本人も高い熱量を持っているのであれば、是非受け入れてほしいと思っている。

 

しかし、このような形の選抜を拡充「しすぎる」のは良くないと思う。個人的にはペーパーテストだけの入試というのは絶対に無くして欲しくない。当座の自分の食い扶持が無くなるというという理由もあるが(笑)もちろんそれだけではない。「ペーパーテストをパスするだけの学力がなくても、素質と動機がある高校生」を受け入れることも大切なのだが、逆に「なんの取り柄もないけれど、ペーパーテストをパスするだけの学力(=学んだ力)はある高校生」を受け入れることもまた大切なことではないかと思うのだ。

 

そもそも、「この大学に入りたい」と思ったのは皆さんいつごろだろうか。大抵の場合は高校に入ってからではないかと思うし、それこそ高校生活のふとしたきっかけで「この大学に行きたい!」となる高校生も少なからずいると思う。私の場合、高校の頃は数学が大好きで、もともと理学部で数学を専攻したいと思っていた。しかし、高2の修学旅行で北海道に行ったのをきっかけに、自然っていいな、でもあまりこれまで生物と戯れる経験を比較的してこなかったので、大学でそういった勉強をしてみよう!と、志望を農学部に変更した。人生の分岐なんて些細なことで起こるものだ。

 

また、課外活動含め、積極的にいろんなことに打ち込んできた人は確かにそうでない人よりも評価は高いかもしれない。けれども、今は消極的であるけれど、自分を変えるきっかけや自分の打ち込みたいことを、大学に見つけたという高校生はたくさんいると思うのだ。そういう人たちにも手を差し伸べるような大学入試であるべきではないかと思う。この大学に行きたいと思ったけれど、その大学に合格するに値する人生経験を積んでこなかったから詰んだ、というのはあまりにも酷である。

 

リスタート、リトライをしたい場面は人生においていくらでもあると思う。そういうことに対して優しい入試であってほしいと思う。

10月の憂鬱を乗り越えろ

気圧の変動が激しすぎてここ数日、頭痛が頻発していて悩まされている。

 

季節の変わり目はやはりメンタルにも影響が大きく、「季節性うつ病」なるものもあるほど。よくよく考えれば、10月はいつも気分のコントロールに悩まされているような気がする。世間はもうすぐでハロウィンだとお祭りモードなのに、私の気分はずっと曇り空のようである。おまけに数日前から急激に寒くなったので、その影響もあるのかもしれない。

 

昔はこんなふうじゃなかったのだが、年を経るごとに気候の変化に対する耐性が弱まっている気がする。その中でどう対処していくかというのは大事なテーマである。ましてや私のように、教壇に立つ人間、ある意味で演者である人間として、パフォーマンスの劣化は許されないことである。いかに普段通りのパフォーマンスを発揮するかが大事なのである。気圧の低下ではあっさりしたものがよいということを最近知った。そういえばお構いなしに油物とかチョコレート(大好物)とか食べていた笑

 

おそらく、受験を控える人間にとっても他人事ではないのかもしれない。10月〜11月というのは秋の模試ラッシュの時期であり、ここで出願先をおおむね決定する人が大半だろうと思う。推薦入試を控えている人であればもっと大事な時期である。しかし、この厳しい気候の変化の中で思うように動けない人も少なからずいるかもしれない。

 

解消法は人それぞれであるが、最近では気圧の変化を知らせてくれるアプリもあるし(私は「頭痛ーる」を愛用している)、SNSでこのようなときに体調不良になったときに何が効果的なのかを発信してくれる人たちもたくさんいる。私はこの方のtwitterをたまにのぞいて参考にしている。

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昔に比べれば救いの手はかなり見つけやすくなっていると思う。ここが踏ん張りどころという人もたくさんいるだろう、何とか乗り越えていきたいところである。

【読書記録】「教養としての東大理科の入試問題」

久々に本屋で面白そうな本を見つけたので即購入、そして即読了した。

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仕事柄、様々な大学の入試問題を見たり解いたりしている。私は大学入試というのは「大学からのこれから大学生になる諸君に向けたメッセージだ」という考えを決して疑わない。特に最近はアドミッションポリシーだの推薦入試だの、大学が「こういう人に入学してほしい」ということを明確に発信するようになったし、出題の意図がHPに掲載されることも珍しくなくなった。その中で、私のこの考えは間違っていないとますます確信するのである。

 

そういった意味で、ここ数年ほど、個人的に関心を強めているのが東京大学である。この仕事を始めるまで、東大の問題など解いたことがなかった。そして初めて解いたときには随分と面倒臭い問題だと思って嫌悪感を示したものである。今思えば随分と未熟だったなと思う。ほとんどの問題が問題集やら予備校の授業やらで類型化されていっている状況で、今なお新傾向の問題を積極的に出題している。しかもそのクオリティは日本の大学を代表するに相応しい。そんな問題を何年も立て続けに出題しているのである。

 

東大の問題は物理と化学を、そしてほんの少しだけ数学をかじったくらいしかないが、どの科目においても「未知への探求」といったメッセージが色濃いように見える。極めて洗練された長文の問題から未知の事象を読み解き、そこから学んだことに基づき思考したり類推したりして解答を導く。知識がないと太刀打ちできないし、知識だけでも太刀打ちできない。大昔は単に難しいだけだったり、さすがにやり過ぎだろうという問題を出すこともあったが、ここ10〜15年ほどは安定的に、非常に高品質な問題を出題し続けている。なんとなく、後期の学科試験が廃止になったあたりが分かれ目のような気がする(本書にも共通一次以降に問題の質が上がったことに言及されており、それと同じではないかと推察する)。

 

この本は、そういった「未知への探求」がどのようなものかを学際的に紹介している。物理、化学、生物、地学は決して独立な存在ではないことも理解できるし、「未知への探求」は大昔から要求されていたのだということもわかる。しかもそれぞれのテーマが非常に面白い。本来こういった入試問題は、受験生とそれを教える人間だけが味わうような、ある意味でオタクな文献なのだが、もちろん広く一般にこういう科学の嗜みは持っていた方がいいと思うので、一般向けにこういった本が出版された意義は非常に大きいと思う。

 

これは余談だが、一昨年にベストセラーである「FACTFULNESS」を読んだ。少なくとも大学院まで研究をしていれば割と当たり前のことばかりが書かれていて、個人的には得るものはそこまで多くなかった。しかし、一般的にはこういう考えはメジャーではないと思われる事象をここ2、3年で多く見かけるようになった。この本もどちらかといえばアカデミアをはじめとする知的生産に携わる人間だけのものなのだろうが、こういう本が一般向けに出版されたことに意義があると思う。それと同様のインパクトを本書に感じる。

 

本書は多くの東大の入試問題を載せている。しかし問題が解けなくても、解説が丁寧であるから、十分概要はつかめると思う。入試問題は暗記したものをそのまま引っ張り出すだけの、無味乾燥な作業が求められていると思われがちだが、決してそうではないことに気づくだろう。大学が入試問題に込めた思想を味わって欲しい。私はまだ問題を斜め読みしながら(流石に地学は読むスピードがスローになったが)ササッと読んでいっただけなのだが、今度は問題をじっくり解きながら再読したい。

 

そしてこれは個人的な願いなのだが、それは東大だけではないことも、同時にご理解していただきたいのだ。同業者ならご存知だろうが、多くの大学が、それぞれの思想に基づいて練りに練られた入試問題を出している。もっと言えば大学だけではない。例えば私立中学。中学入試はなかなか大学入試を専門とする私にとっては解きづらいものばかりなのだが(本当に中学入試は難しいと思う、、)、数少なく解いてみた問題の中でも灘中は東大の思想に非常に近いと感じた。新傾向問題の出題に対する積極的な姿勢がそっくりである。大学入試を見据えて、さらにその先の社会を見据えて、どういったことを大切にしているのか、こういう思考に立ち向かえる人間を歓迎する、というメッセージの発信は既に中学受験で行われているのだ。

 

すでに理科が好きな人にも、理科に対して抵抗がある人にもおすすめである。これは理科の本ではない、思想を感じるための本である。

受験生はtwitterやめたら?について

受験生が夏頃からよく聞く、あるいは受験生を教えている人間が夏頃からよく話す言葉が「twitterやめたら?」だ。なぜかこういう言い回しではtwitterが真っ先に槍玉に挙げられるのだが笑、twitterというか、SNS一般ということになるのだと思う。

 

個人的にはtwitterは情報収集のツールとしては有用だと思っている。最近はツイートの信憑性やら情報価値やらはだだ下がりしているように思われるが、極めてプライベートな情報を集めるのであれば適していると思う(それを信じるかどうかは自己責任なのだけど)。昔でいうところの個人ブログに近い位置付けなのかもしれない。

 

だから安易に、twitterやめたら?というのは個人的にはいかがなものかな、twitterの役立つ面をちゃんと見ているのかな、と思っていたのだが、最近は少し考えを改めつつある。いや、SNSのサービスの恩恵に預かることを否定するのではないし、後に述べるようにそもそも私がtwitterをやめることをできていない。自分ができないことを他人に押し付けるのは愚かな行為だと思っているので、おそらくこれからもtwitterやめたら?みたいなことは言うまい。でも、ある程度外部からの強制力は必要だよなという。

 

私にとってもSNSはある意味でインフラみたいなものである。生活の質を維持するにはなくてはならないものだと思っている。だが、やはりのめり込みすぎているなあというふうに感じていたことと、デジタル・ミニマリストの話を知って、少しセーブしてみようかなという気になった。

デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する | カル・ニューポート, 長場 雄, 佐々木 典士, 池田 真紀子 |本 | 通販 | Amazon

 

 

そこで、今更感はあるが、今年に入ってからiPhoneのスクリーンタイムを設定してみた。自分が使うのであれば、せいぜい1時間くらいだろうと思っていたのだが、まあすぐに制限が来る(笑)休みの日なんてすぐだ。で、完全に遮断されるわけではなくて「今日だけは無視」というボタンがあるんですよね。この誘惑に負けることも数知れず。というより、現状全敗である(泣)。そりゃそうだ、これだけの中毒性があって、時間を溶かしてしまうのだもの。自分の意思でセーブできるのならいいのだけど、その意思の強さというのは半端ないレベルでなければなかなか難しいだろうと思う。喫煙者にとって禁煙が難しいという気持ちがわかったような気がする。

 

そういうわけで、自律的にtwitterなどのSNSをやめるというのは極めて困難なのだ。だから、第三者から口を酸っぱくして何度も伝えて、じんわりと意識改革をさせる、ということは必要なのかなと思う。先述の通り、「やめたら?」というのは安易に言えないが。

 

と同時に、「やめたら?」と言いっぱなしにすれば済む話ではないと思う。SNSの中毒性は大人にとっても肌で感じるレベルでわかっているはず。「どうやめるか」ということを具体的に伝えていく必要があるのだと思う。食事指導で「甘いものをやめろ」と言っても何の説得力もない。「甘いものをやめるにはどうしたらいいか、それでも満足感を得られるためにはどのようなものを食べれば良いか、どんな献立にしたら良いか」というところまでを伝えてこその指導だと思う。

 

ところで、私の後日談なのだが、スクリーンタイムが全く無力だったわけではない。それでも昔に比べれば確実にSNSを触る時間は短くなった。通知が来るだけでも「ああやりすぎだな、そろそろやめないとな」というふうに意識が向く。それならkindleで本でも読むかといった感じで。スクリーンタイムの機能に依存することは自分が屈したことにはならない。むしろ、自分の意思の弱さを道具で補完したという、前向きな行動だと思う。

 

これについてもガチでやった方がいいのかなと思う。もちろん、成功したあかつきにはそれを後世に共有したい。

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