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【読書記録】「教養としての東大理科の入試問題」

久々に本屋で面白そうな本を見つけたので即購入、そして即読了した。

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仕事柄、様々な大学の入試問題を見たり解いたりしている。私は大学入試というのは「大学からのこれから大学生になる諸君に向けたメッセージだ」という考えを決して疑わない。特に最近はアドミッションポリシーだの推薦入試だの、大学が「こういう人に入学してほしい」ということを明確に発信するようになったし、出題の意図がHPに掲載されることも珍しくなくなった。その中で、私のこの考えは間違っていないとますます確信するのである。

 

そういった意味で、ここ数年ほど、個人的に関心を強めているのが東京大学である。この仕事を始めるまで、東大の問題など解いたことがなかった。そして初めて解いたときには随分と面倒臭い問題だと思って嫌悪感を示したものである。今思えば随分と未熟だったなと思う。ほとんどの問題が問題集やら予備校の授業やらで類型化されていっている状況で、今なお新傾向の問題を積極的に出題している。しかもそのクオリティは日本の大学を代表するに相応しい。そんな問題を何年も立て続けに出題しているのである。

 

東大の問題は物理と化学を、そしてほんの少しだけ数学をかじったくらいしかないが、どの科目においても「未知への探求」といったメッセージが色濃いように見える。極めて洗練された長文の問題から未知の事象を読み解き、そこから学んだことに基づき思考したり類推したりして解答を導く。知識がないと太刀打ちできないし、知識だけでも太刀打ちできない。大昔は単に難しいだけだったり、さすがにやり過ぎだろうという問題を出すこともあったが、ここ10〜15年ほどは安定的に、非常に高品質な問題を出題し続けている。なんとなく、後期の学科試験が廃止になったあたりが分かれ目のような気がする(本書にも共通一次以降に問題の質が上がったことに言及されており、それと同じではないかと推察する)。

 

この本は、そういった「未知への探求」がどのようなものかを学際的に紹介している。物理、化学、生物、地学は決して独立な存在ではないことも理解できるし、「未知への探求」は大昔から要求されていたのだということもわかる。しかもそれぞれのテーマが非常に面白い。本来こういった入試問題は、受験生とそれを教える人間だけが味わうような、ある意味でオタクな文献なのだが、もちろん広く一般にこういう科学の嗜みは持っていた方がいいと思うので、一般向けにこういった本が出版された意義は非常に大きいと思う。

 

これは余談だが、一昨年にベストセラーである「FACTFULNESS」を読んだ。少なくとも大学院まで研究をしていれば割と当たり前のことばかりが書かれていて、個人的には得るものはそこまで多くなかった。しかし、一般的にはこういう考えはメジャーではないと思われる事象をここ2、3年で多く見かけるようになった。この本もどちらかといえばアカデミアをはじめとする知的生産に携わる人間だけのものなのだろうが、こういう本が一般向けに出版されたことに意義があると思う。それと同様のインパクトを本書に感じる。

 

本書は多くの東大の入試問題を載せている。しかし問題が解けなくても、解説が丁寧であるから、十分概要はつかめると思う。入試問題は暗記したものをそのまま引っ張り出すだけの、無味乾燥な作業が求められていると思われがちだが、決してそうではないことに気づくだろう。大学が入試問題に込めた思想を味わって欲しい。私はまだ問題を斜め読みしながら(流石に地学は読むスピードがスローになったが)ササッと読んでいっただけなのだが、今度は問題をじっくり解きながら再読したい。

 

そしてこれは個人的な願いなのだが、それは東大だけではないことも、同時にご理解していただきたいのだ。同業者ならご存知だろうが、多くの大学が、それぞれの思想に基づいて練りに練られた入試問題を出している。もっと言えば大学だけではない。例えば私立中学。中学入試はなかなか大学入試を専門とする私にとっては解きづらいものばかりなのだが(本当に中学入試は難しいと思う、、)、数少なく解いてみた問題の中でも灘中は東大の思想に非常に近いと感じた。新傾向問題の出題に対する積極的な姿勢がそっくりである。大学入試を見据えて、さらにその先の社会を見据えて、どういったことを大切にしているのか、こういう思考に立ち向かえる人間を歓迎する、というメッセージの発信は既に中学受験で行われているのだ。

 

すでに理科が好きな人にも、理科に対して抵抗がある人にもおすすめである。これは理科の本ではない、思想を感じるための本である。

受験生はtwitterやめたら?について

受験生が夏頃からよく聞く、あるいは受験生を教えている人間が夏頃からよく話す言葉が「twitterやめたら?」だ。なぜかこういう言い回しではtwitterが真っ先に槍玉に挙げられるのだが笑、twitterというか、SNS一般ということになるのだと思う。

 

個人的にはtwitterは情報収集のツールとしては有用だと思っている。最近はツイートの信憑性やら情報価値やらはだだ下がりしているように思われるが、極めてプライベートな情報を集めるのであれば適していると思う(それを信じるかどうかは自己責任なのだけど)。昔でいうところの個人ブログに近い位置付けなのかもしれない。

 

だから安易に、twitterやめたら?というのは個人的にはいかがなものかな、twitterの役立つ面をちゃんと見ているのかな、と思っていたのだが、最近は少し考えを改めつつある。いや、SNSのサービスの恩恵に預かることを否定するのではないし、後に述べるようにそもそも私がtwitterをやめることをできていない。自分ができないことを他人に押し付けるのは愚かな行為だと思っているので、おそらくこれからもtwitterやめたら?みたいなことは言うまい。でも、ある程度外部からの強制力は必要だよなという。

 

私にとってもSNSはある意味でインフラみたいなものである。生活の質を維持するにはなくてはならないものだと思っている。だが、やはりのめり込みすぎているなあというふうに感じていたことと、デジタル・ミニマリストの話を知って、少しセーブしてみようかなという気になった。

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そこで、今更感はあるが、今年に入ってからiPhoneのスクリーンタイムを設定してみた。自分が使うのであれば、せいぜい1時間くらいだろうと思っていたのだが、まあすぐに制限が来る(笑)休みの日なんてすぐだ。で、完全に遮断されるわけではなくて「今日だけは無視」というボタンがあるんですよね。この誘惑に負けることも数知れず。というより、現状全敗である(泣)。そりゃそうだ、これだけの中毒性があって、時間を溶かしてしまうのだもの。自分の意思でセーブできるのならいいのだけど、その意思の強さというのは半端ないレベルでなければなかなか難しいだろうと思う。喫煙者にとって禁煙が難しいという気持ちがわかったような気がする。

 

そういうわけで、自律的にtwitterなどのSNSをやめるというのは極めて困難なのだ。だから、第三者から口を酸っぱくして何度も伝えて、じんわりと意識改革をさせる、ということは必要なのかなと思う。先述の通り、「やめたら?」というのは安易に言えないが。

 

と同時に、「やめたら?」と言いっぱなしにすれば済む話ではないと思う。SNSの中毒性は大人にとっても肌で感じるレベルでわかっているはず。「どうやめるか」ということを具体的に伝えていく必要があるのだと思う。食事指導で「甘いものをやめろ」と言っても何の説得力もない。「甘いものをやめるにはどうしたらいいか、それでも満足感を得られるためにはどのようなものを食べれば良いか、どんな献立にしたら良いか」というところまでを伝えてこその指導だと思う。

 

ところで、私の後日談なのだが、スクリーンタイムが全く無力だったわけではない。それでも昔に比べれば確実にSNSを触る時間は短くなった。通知が来るだけでも「ああやりすぎだな、そろそろやめないとな」というふうに意識が向く。それならkindleで本でも読むかといった感じで。スクリーンタイムの機能に依存することは自分が屈したことにはならない。むしろ、自分の意思の弱さを道具で補完したという、前向きな行動だと思う。

 

これについてもガチでやった方がいいのかなと思う。もちろん、成功したあかつきにはそれを後世に共有したい。

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喪失した熱量を、君のために分け与える

このコロナの中で薄々感じていたことが、ここ数ヶ月で急に顕在化してきている気がする。それは「熱量の喪失」だ。

 

最初は対岸の火事というか、割と遠いところで起きている話だと思っていた。たしかに電車の人身事故は増えているような気がしていたけれども、比較的私の近くにいる人たちは新しい趣味に興じたり、個々で自分なりに日々を楽しんでいるように見受けられた。しかし、特に今年に入ってからは私の近くでも、心を病むと言えば大げさなのだが、人となりが過去とは明らかに違うな、と感じることが増えてきた。もちろん良くない意味で。何だかバイタリティが抜け去っている、そんな印象を受けるのだ。薪をどれだけくべても、湿っぽいのか、炎の勢いが増す気配がないように。それがつい最近になって拍車がかかってきたような形だ。

 

そりゃあ、このご時世、メディアでもネガティブなニュースを強調してばかりだし、四六時中マスクをしていては新鮮な空気を存分に吸い込むこともできない。授業もオンライン授業で味気がない。毎日当たり前のように居た学び舎が休校になって、当たり前でなくなっている。そんなことがもう一年半以上も続いている。この状態でベストコンディションを維持しようということ自体、かなりハードなことだと思う。

 

とは言え、人によっては置かれた状況が正念場という場合も少なくない。例えば受験生であれば、そんなことは言っていられないだろう。なるだけベストコンディションになるように、最善を尽くす必要がある。

 

だからこそ、特に今は生徒のメンタル面でのケアが必要だと思う。これは受験学年だけでなく非受験学年でもそうだと思う。目の前に受験が迫っていなくても、長期的に見れば学力向上の大きな阻害要因となる。本当は生徒を爆笑の渦に巻き込むのがベストなのだろうけれど、私は正直、笑いのセンスも大したものがなく、これまでの人生経験もさしてドラマチックなものはないから、雑談も大して面白いものがない(つくづく自分って面白くない人間だなあと思う、、、)。

 

でも、そんな自分でも、励ましたり、前向きな気持ちにさせることはできるかもしれない。自分がまさにそういうスタンスでふさぎこんだ気持ちを、多少無理矢理にでも、何とかすることができたから。今度はそのやり方を関わった人たちにシェアするのだ。面談などで前向きな言葉をかけたり、冗談を言ったりして、フフッとでもさせてあげられたなら、自分としては上出来だと思う。真面目な話であればいくらでもするので、そのあたりは特に困ることはないと思う笑

 

あるいは、いわゆる「新しい生活様式」で会話が希薄になっている。ちょっとした声掛けだけでも、救われることがあるのではないか。ばったり出くわしたときでもいい、机間巡視のときでもいい、どうしても直接話しかけられる機会がないのであれば、伝言や書き置きを託すのでも良いと思う。

 

これはある意味、自分の何かを切り分ける作業でもあると思っている(私自身はよく「MPを消費する」と表現している)。アンパンマンが弱っている人に自分の顔をちぎって食べさせ、元気にさせるのと同じようなものだと思う。私だってロボットではないから、上記の影響を受けていないわけではなく、見える景色が快晴よりも曇天の方が増えたかなという印象はある。他人の心配よりも自分の心配をした方がいいのかもしれない。

 

だが、自分自身がこれからの時代をどう生きるかよりも、後の世代がこの世界をよくするように動いてくれることの方がずっと大切であると思っている。だから、明日も今日以上に「かかわること」を強く意識していく。それを日々積み重ねていく。ただそれだけである。

 

もちろん生徒だけではない。私の近くにいるプライベートな間柄の人たちにおいても同じことが言える。内向的だとか気を遣いすぎだとかで、もともとこういうことは積極的にする方ではなく、当座は自分を奮い立たせてという形になるけれど、言いたいことがあれば、前向きにさせたい言葉が浮かべば、すぐに言うっていうスタンスを大事にしたいと思う。

選ばれた自分を求めるのはやめよう

新型コロナウィルスの感染者が急減している。要因は様々あるが、やはりワクチンの接種は大きく貢献していると思う。もちろんワクチンを打つことの是非については色々な考え方があるのだけど、現状では最善の策だと思っていて、この間に特効薬の開発を続けていくことが大切だと思う。

 

私自身はもちろんこの通り、ワクチンに関しては肯定的なのだが、ワクチンパスポートに関しては反対の立場である。先ほど「色々な考え方」がある、と述べた。現状ワクチン接種は義務化されていない以上、ワクチンの接種を強いることはあってはならないと思うし、ましてやそういう状況において、接種した/しないで人の自由を制限する、ということは、もっとあってはならないことだと思う。極端な話、選民思想にもつながると思う。ただ、一定の支持が得られているということは、そのような区別を良しとする民意が少なからずあるということだろう。

 

で、ここからが本題である(実はワクチンの話をしたいのではない)。

 

ワクチンパスポートの件で思ったのは、こういう事象はコミュニティの大きさに関係なく、どこでも似たようなことが起こりうるし、我々もついついそういうことをしてしまうということだ。ワクチンパスポートは要するに「ワクチンを接種した人と接種していない人を区別する」ということだ。区別というよりは明らかに接種側に利があるのだから、「ランク分け」といったほうがいいのかもしれない。

 

例えば、格付けチェックという番組がある。まさに「ランク分け」をコンセプトとした番組だ。ここ数年はありきたりの展開ばかりなのだけど、それでも視聴者が参加できるような仕掛けもあるし、人気番組なんだろうなと思う。しかし、例えば値段の高いワインが見分けられるだの、値段の高いギターの音色が見分けられるだの、っていうのは、たくさんあるステータスの1つであって、その人の全体を決めるものではない。お遊びで一喜一憂くらいならしたっていいのだけど、本当はそれが人のランク付けになるものではない。ワインの値打ちが分からなくたって、聖人君子みたいな人だったら別にいいじゃんと思うし。我々はこういう格付けに興じてしまいがちなのだけど、だからこそ、こういうバラエティというのは虚構だとしっかり自覚しながら視聴しないといけないと思う。

 

また、私は音楽を趣味にしているのだけど、そこにおいても似たようなことが当てはまると思う。あるジャンルの音楽に傾倒している人の中には、もちろん寛容な人はたくさんいるのだけど、たまに自分が傾倒しているジャンルしか認めない、それ以外は格下、みたいに思っている人がいる。ジャンルを特定のアーティストに置き換えてもいいかもしれない。特にバンド活動している人の中でしばしば聞く意見は「生楽器の音こそ至高、打ち込みは到底かなわない」といったものである。たしかに生楽器の音圧というのは何物にも代えがたいものだけれど、打ち込みが完全に負けるのかというとそうでもない。そっちはそっちでしっかりとフォロワーを集めているし、なんなら人気のボカロ界隈はほぼほぼ打ち込みではないか。それぞれにいいところがある、それでいいと思う。

 

これ以外にも、自分、もしくは自分がフォローしているもの以外を見下すことってのはあると思う。最近よく耳にするようになった「マウント」も根っこは同じだと思う。我々人間は、何かを下に見たり、上に立ちたがったりすることが性分としてあるのかもしれない。これって心理学的に裏付けでもあるのだろうか、マズローの承認欲求とかになるのだろうか。でも、その欲望のままに生きていると、あちらこちらで分断が起きたり(もう既に顕在化しているけれど)、誰も幸せにならないと思う。自分で自分を制御することが大切だと思う。

 

と思ったら、20年近く前にそれは既に言われていたし、多数の人々の支持も受けているはずなんですよね。もう一度、このときの共感を。

 

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夏の成果はすぐには現れない

大学入試に向けて、夏の頑張りが大事だということは今更言うまでもない。比較的自由に時間を管理することのできるこの夏にどれだけ基礎を固めるか、苦手意識を払拭するか、得意分野をさらに伸ばすかが合格のカギを握る。

 

おまけに夏休みは予備校や塾がこぞって模試を行う時期でもある。大学入試であれば、共通テスト模試はもちろん、大学別の模試(いわゆる冠模試)も行われる。

 

ところが、それらを受けた後の受験生の声は大抵の場合、沈んだものばかりである。「また英語ができなかった・・・」「オープンの数学で1完もできなかった・・・」などである。こういう結果を目の当たりにすると、この夏、あれだけ頑張ったのになぜできないんだろう、ちっとも力がついていないんじゃないか、間に合うのか、と余計に落ち込み、さらには、今自分がやっている勉強法を全否定することに走り出すケースもたまにある。

 

しかし待って欲しい。この時期に私が受験生に対していつも言うことがある。それはタイトルにもある「夏の成果はすぐには現れない」である。勉強というのは継続が難しい。というのも、勉強の効果がすぐに現れることはほとんどないからだ。ダイエットと似たようなものである。そりゃあ、全く勉強しておらず、基本知識のインプットが全くできていない状況で夏に猛勉強してインプットを重ねたとすると飛躍的に点数は上がるかもしれない。しかし、多くの大学入試で問われるような、思考力を問うようなスタイルの問題は、その訓練をしてもすぐには解けるようにはならないのだ。

 

実際、私も受験生時代は物理と地理が非常に苦手であった。地理に関しては全くインプットができていなかったこともあり、割とすぐに点数は伸びたものの、物理はやってもやっても、かえって分からなくなることが多く、やや泥沼にはまっていた。しかし、ここを克服しないと合格はあり得ない(なにせ当時浪人していたし)と思い、考えることを諦めなかった。

 

そうすると、その年の冬、急にあらゆる問題がしっかり論理的な道筋を立てて解くことができるようになった。それまで全く解ける気がしなかったのに、である。これは不思議な体験であった。おそらく人生で経験した不思議な体験の3本の指に入ると思う。私はよく「熟成期間が必要」という言い方をするのだが、思考し続けることで何かしらがネットワークで繋がるのだろうと思う(非科学的かつ言語化ができず申し訳ない)。それ以降は全く物理に対して苦手意識がなくなった。

 

受験生を見ていても、普段の小テストなどでは成果を出していても、もし本番でその成果が現れるのは、夏にしっかり頑張ったことを前提として、だいたい秋くらいだと思う。9月でもその成果が現れるのはごく稀である。だから、今成果がでても焦ることはないから安心するように伝えるのが、私にとってこの時期の恒例行事である。

 

一番やってはいけないのは、先述の通り、成果が出ないと言って今やっている勉強をストップさせてしまうことだ。まだまだ伸びている最中なのにそこで成長の芽を摘むのはよろしくない。もちろん方向性が誤っている勉強であれば適宜修正していかなければならないが、思考の訓練は継続していくべきだと思う。精神的に苦しい作業かもしれないが、だからこそメンタルの管理というのも受験勉強にとっては大切だし、傍にいる友人や大人たちに頼って欲しい。自分を信頼してくれる人たち、自分よりも人生経験が豊富な人たちからのサポートは馬鹿にはできないと思う。

 

 

 

 

 

 

読解に向き合わせるために試行錯誤中

肌感覚なのだけど、ここ数年で、大学入試の問題のつくりがかなり変わった気がする。特に直近のセンター試験、そして共通テストにおいては、全科目的に「読むこと」に重きが置かれている気がする。

 

例えば、2016年のセンター試験(化学)では、ミョウバンの純度を計算する問題が出題された。含まれているミョウバンは12水和物の形をとっているのだが、ミョウバン無水物の式量が問題文で与えられていて、これをそのまま用いたらアウトである。12水和物なのだから、その分を考慮して式量を求めなければならない。しかも、それを求めるための原子量は冒頭にしかないので余計に見落としやすい。恥ずかしながら、この年のセンター試験を翌日に解いたときに、私もそれを見落としてしまい、満点を逃すという苦い経験をしたことがある。示されているものに誘われず、問題文の内容を正しく把握しなければならないわけだ。

 

ところが、それとは逆に、実際に受験する側の方はというと、かえって昔よりも問題文を読む力が不足しているように見受けられる(だからこそ、こういう問題が増えているのかもしれないが)。それも、しっかりと読んだ上で設定を見落としていましたというようなレベルだけではなく、完全に読めておらず、そのまま独自の解釈で解答作成に突っ込むケースをよく見るのだ。

 

こういう生徒は、口頭で問うたときの反応や、普通の会話でもそういうふしがある。単語だけ、主語がない文(文とは言えない、、?)を多用するのはもちろん、こちらが話すことを遮って「あーそうそう」とわかった“つもり”になって自分の意見を話すといったケースも少なくない。もはや読解という作業を放棄しているかのように見受けられる。そして、だからこそ、連絡や指示もなかなか通らず、こちらが頭を抱えるはめになることもしばしばある。

 

もちろん、こういうときに発信者、教え導く人間に非があるとまず考えるべきだと思うので、今のところこういうことを強く意識して実践するようにしている。

 

  • 口頭だけでなく書いて視覚情報でも提示する
  • 大事なことは3度は言う、話すトーンも変える
  • ややこしいことは必ず例示する
  • 問題解説で自分の思考回路を丁寧に再現する
  • 問題解説で、解法の手がかりとなる部分を必ず問題文から探させる

 

どれも教えることにおいては当たり前のことじゃないかと思うし、私自身もこれまでやってきたことである。しかし、意識の置き方がこれまでの2〜3倍増しになっている自覚がある。授業準備でもこのあたりは今まで以上に緻密に拾い上げている。こうやって様々な手段を講じるのであるが、まだまだ焼け石に水であるような気がするのが現状である、、いや、今は効果が現れていないだけで、雨だれ石を穿つ、ということになると思って気長に待てばいいのだろうか、、、

面倒でも一手間かける

コーヒーが好きでよく飲む。

この夏は、暑いのと忙しいのとでペットボトルのコーヒーばかり飲んでいた。

これはこれで簡便だし、味についても満足していたたのだが

昨日、すごく久しぶりにドリップコーヒーを淹れてみた。

 

今までのコーヒーなんだったんだという気になった(笑)

 

コスト的にもこっちの方が安いし、なんで頑張って続けなかったんだろうと。

少しの一手間を惜しまずにやることってすごく大事だなと感じた。

 

思えば、昨日は一手間をかけることの大切さを

いろいろなところで再認識した。

 

例えば、料理。

昨日の晩御飯は焼きそばを作った。

普段は豚こまをそのままフライパンに投入するのだけど

たまたま、レシピもそうなっていたというだけの理由だが

豚こまを細かく切って、フライパンに入れた。

 

味がしみて美味しかったし、食べやすかった(当然)

それに、見栄えもすごく良くなった。

そのまま投入しても、お腹に入れば一緒だけど

見た目がワイルドというか、いささか粗雑になる。

豚こまって、細切れだからこそパッと使える良さがあるのだけど

それでも手間をかけて、食べやすい大きさに切るということは

食べやすさに限らず、いいことがある。

 

例えば、授業。

ここ1年ほど、授業案は割とラフに作っていた。

これだけ教えていたら、即興でもなんとかなるし

「授業は生き物」だと思っているので

そこからの自分でも想定しない展開というのを大事にしていたからだ。

今月から、以前のように、いや、以前以上に

緻密に教案を作ってみている。

もちろん、突飛な展開は少なくはなるのだけど

当然ながら、授業としては締まりが良かったと思う。

なんなら、訓話というか雑談も今回は台本に組み入れている。

アドリブも大事だけど、構成力も大事。

そこに一手間をかけるという意思が大事だと思う。

 

少なくとも今月は、一手間かけることを大切にしていきたい。